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ドラマ

(平成二年五月)

 人の一生はその人の能力や身分などにかかわらず決して非ドラマティックではない。 尾崎士郎がいみじくも述べたように「人生はドラマだ」である。
 そのドラマの筋書きがもう生れる前から決まっていて、主役を演じさせられているということに気がつくかつかないかで演技のしかたが相当違ってくるということにはなかなか思いが及ばない。
 わたしもようやくそのことに気がついて、 よし、これからはアカデミー賞を狙ってみようかと思いはじめた。演技力とルックスは別問題である。
 英語のpretendはふりをする、とか装う、あるいはうぬぼれるというような意味あいがあって、あまりいいことのためには使われない。ふつうは演技をするという英語は、 actが使われていて、同じ「ふりをする」という行為でも「劇の中で」という条件がついている。行為が同じでその妥当性が、ただ背景によって異なるというのであれば、こっちの頭さえ変えれば pretendもactもたいして差がない。
 サマセット・モームの「劇場」という小説の中でのヒロインのことばは、人の真実というものが、ほんとうは舞台の上で演技している自分の姿の中にあって、私生活の自分はまさにpretenderであると悲痛に叫ばせるものである。
 わたしは自分がドラマティックなことが好きなオッチョコチョイの目立ちたがり屋であることを充分にわきまえているので、どうせ一度しかない超大作の主役をやるのだから、大胆に積極的にほかの脇役の人達を喰ってやろうと思うのである。何枚目でもいいじゃないか。
 どの幕にも必ずだれかほかの人が出ている。みんなのこのドラマに必要な配役であって、たとえチョイ役でもあだやおろそかにはできない。これまでの経過でいったい何人の人がわたしのドラマに出演してくれたのか見当もつ かない。たったこの一週でもニューフェイスかそれに準ずる人が何人かいるのだから、生れてから今日までとすると恐ろしいほどの数になる。製作費の何%が人件費に使われるのか知らないが、映画ならばちっぽけな会社ではたちまちつぶれてしまう。つぶれないのは人に見せるためにフィルムにとらないからであって、もともと営業のためのものではないからである。
 そう思えば気が大きくなって、生きていくのも楽しくなるというものではないか。
 友達のKさんが昨年入院するときに不安でいっぱいの状態でいたので、わたしはこういう提案をした。朝から晩まであなたを続けているカメラの目を想定して、それを常に意識していればどうかと。
 自分は何もとりえがなくて、生活も変化に乏しいと落ち込んでいる人がいたらたとえ一時にせよ、こういうふうに頭を切り換えてみるのも無駄ではないと思う。

 さて、製作費ゼロのこのドラマが実はちゃんと記録に残されていて他人に見せるためではなく、自分にみせるために死の床に用意されているとすると…。

 オマール・カイヤムのルバイヤードの一節は、こういうことを言っているのではないだろうか。


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