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うらみ

(平成五年七月)

 山野保の「うらみの心理」は前に読んでいるが、自分が重症のクライエントであると自覚するのは、単に「悩み」を抱えているという段階ではなく、その悩みが焦げついた深い「うらみ」にまで成長していると考えるからある。「理念」の講義の中でそのような場合の対応にはもう少し別の方法があるようなことチラと言っている。かんたんなカウンセリングで治るようなものではないようである。もちろん治らないということはないと思うが、わたしの場合には、「治るということは、相手をゆるすことになり、わたしは決してゆるさないという心積りを変えることはいやだ」という強い気持ちが働いている。わたしの救いたい病気がそこにまさに存在し、わたしはそれと闘うためにここにいる。
 なぜカウンセリングの通信教育を受けなおすという気になったのかをよく考えてみると、かすかにではあるが、この救いがたい病気になんらかの処方があるかどうかと希望をもっていることがわかる。
 つまり 「うらみ」を持ったまま死ぬのはいやだという心理はまだ生きているのである。あした死んでもわたしはいっこうにかまわないと思ってはいるが、死ぬときに後悔しないためには 「やり残し」は不都合な条件である。わたしにこれほど明白な理屈が理解できないはずがないのに、これから先に生きられる時間はこれまでよりはずっと短いとじゅうぶんに承知しているのに、それでもなお「かんたんには治りたくない」と思っているのである。
 まったく別の見方をするならば、この「うらみ」の存在ゆえにこれを自分の生きるためのエネルギーとしているということが考えられる。
 小泉八雲のごく短い小説に「機転(気転)」 というのがある。今にも斬首刑を受けるという男が自分は無実だと主張し、死刑に処すことに決めたお前を死んだあとも呪ってやると判官に言いつのる。判官は「ほんとうにお前が無実であるのならば、その証しに、首をはねられたその直後に、そのすでに胴から離れた首でそこにある石に噛みついて見せろ」と言う。果たしてその受刑者は斬り落とされた首のままでガッとその石にくらいつく。それによって判官は「問題の矛先」を変えることに見事に成功するのである。
 わたしの生きるエネルギーは、この死刑を受けた男の「石に噛みついた意地」とも似ていて、本来ならばすでに一度死んだ者が別の道によって「生かされている」というような感じさえする。どの時点で「一度死んだ」のかはわからないが、これがキリスト教でいう洗礼のときの「新生」とは明らかに違うことの自覚はわたしにある。受洗してからもそれ以前よりもむしろわたしの罪は深く、今もまったく変わることなく持続している。その持続のエネルギー源は、「うらみ」を生きているうちに晴らしてやるというような、なんと浅ましいもので、いっそ自分が黒塚の鬼女であればもっと気が軽いのにとさえ思う。 彼女の命はみせかけのものであって、この世のものではない。しかしわたしの命はこの世にまだあるものである。
 ここまで書いてきて、わたしがこの文集を書くようになってから初めて自分を明るみに出せたという思いになった。今までは「こういうことは外に出してはいけない」という一種の呪縛にとらわれていたが、自分の姿がこうして自分に見えた以上は、もうあとはどうなってもかまわないという気にすらなる。 これが今受けている通信教育の成果だとすれば、まさにわたしの目的の半分はすでに達成されたとも思えるのではあるが…。

 「うらみ」は次のように大別される、と山野保の本には出ている。
1、恨み
相手への甘えや一体感欲求が拒否されて生じた受動的な敵意であり、甘えとアンビバレンスな関係にある感情。
2、怨み
a 相手がどうしても甘えや一 体感の回復欲求に気づかないため、恨みが解消せず、その苦しさに耐え切れず害意を抱くようになったときの感情。
b パーソナルな関係がなかった相手から不当な仕打ちを受けながら、直ちに報復できず害意を抱き続けているときの感情。

 わたしはこれを読んで、自分の 「うらみ」は複合的なものであると感じた。すなわち、1の恨みと2の怨みのaの両方の要素がある。
 テレビドラマの刑事物などで見るような、そういう単純なものであればどれほど処理もしやすかろうと、しばしばそういう思いにとらわれる。
 「相手」がわたしのこの複合的な「うらみ」に気づいていないとするとどうだろう。あるいは、うすうすとは気づいているにしても、自分のどの行動がわたしにたいして「うらみ」の感情のもとになっているのかをまったく知 らないとすると、このわたしの感情をどこに持って行ってどのように処理すればいいのであろうか。
 わたしは過去に何度か、相手のどういう言動がわたしにとって不快なものかを伝えている。正確には「言」はなく、ただ「動」があるだけで、過日のわたしの心をなお閉ざした出来事というのもまさにこの端的な例である。
 これとまったく同様の出来事はちょうど 一年前にもあり、わたしはその場からほとんどはだしで逃げ出している。涙で前が見えないほどの状態で車を運転して、どこへ行くともなくただその場にはいたくないという強い感情に押されるように走った。
 「相手」はそのときに自分がどれほど苦々しい思いをしたのかを覚えていないはずがなく、それにもかかわらずまた同じ間違いを繰り返すという、信じられないようなことになっているのである。
 つまり、これは相手がわたしにたいして自分はすでにゆるされているはずだという思いをもつゆえのことであって、その思いの前提になっているのは「なにかわたしにたいしてしてあげた」ものがあるという自信からきているはずである。
 わたしは物質的なものにたいする欲というものは皆無といってもよい。しかし物欲ではない精神的欲求ともいうべきものはほかの人が考えられないほど強く、相手にはその渇望の度合いは理解しきれないものがあるはずである。 それを知らずに基本的欲求さえ満たせば文句はなかろうとばかりに「言」のないままで当然のようにわたしを踏みにじるような行為に及べば、 わたしにはさらに「うらみ」のかさが増すだけで、事態は少しもよくはならない。
 わたしがゆるせないのはこういう鈍感というか無知さというか、あるいは女を自分の所有物とも勘違いしているような行為である。

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