無能か有能か
(平成四年一月)
月曜日以外の新聞には膨大な量のチラシが折り込まれている。とくに土曜日のその量は、町中の家庭からそれだけを集めてお風呂をたけば優に百軒分は足りるであろうと思われるほどである。なんという無駄使いであろうかと見るたびに思う。
その中には常連ともいうべきスーパーのチラシが必ずはいっていて、そこに掲載された品物や値段を見ればうちのお店がいかに売れなくともいたしかたないということを納得させられる。値段で勝負されて勝つ見込みなどまったくない。辛うじて勝ち目があるとすれば、お客さんとの心のつながりかただけである。それすらも、こちらの思惑のはずれることはなはだしく所詮お客さんというものは 「わがまま」なことが許されるのかと諦めてしまう。
スーパーのチラシのはいっていない日はない。大手のスーパー数店の見比べはそれを見る人の意志を決定させ、多少の交通費はいとわずこのあたりの奥さんがたは愛車を駆り出す。ウチのお店はあってもなくてもいいお店か。それほどに価値のない情けないお店かとつくづく考えて飲むお茶は冷めていてうすい。
こんなことをしていていいのかと不安にもなるし、かといって今から別の事業を起こすアテもさらにない。こたつに足を突っこんでいるうちにあたりが暗くなってきて、いく分日は伸びたものの夕暮れの暗さはわたしの不安色そのもののようである。
ヒマなお店のレジに始終いなくてすむ事情になったわたしが余る時間を何に費やすいうことは、ただ単にその日その日だけの問題ではない。具体的なプランを立てて行動に移さないと人生を無駄にするような気がする。
グウタラしているのはタマにはいい。自分が今グウタラしていていい気分だと思える間はふだんはグウタラしていない証拠であるからまだいいが、これが慢性になると危険である。少なくともこれまではそう思っていた。
A君はたびたび東京へ出張するらしいが、そのときには必ず秋葉原へよってCDを数枚買ってきて、それをわたしにまわしてくれる。このごろはわたしが頼めばそれを必ず買って来てくれるのが通例になってしまった。自分で聞くより先にわたしに貸してくれたりするので気の毒なようである。そういうことがあるので、明日東京へ行くという前の日にわたしは本屋さんへ行って彼のために本を買ってもたせることにした。電車の中で読むようにと思ってあまり重くない(物理的にも内容的にも)ものを買うつもりでお店にはいると、いちばん最初に目についたのが「無能の人のすすめ」であった。「無能の人」は映画化されていて、監督の竹中直人はいろいろな賞を受けている。その記事をついこの間新聞で見たばかりである。「A君にはこれだ!」と思ったのは時事性よりもむしろ彼の茫洋とした雰囲気に由来する。
買ったその足で彼の勤め先へ行き「電車の中で読む本」といって手渡した。彼はこのタイトルには心あたりがあったらしく「ああ、これ」といってまんざらでもなく受け取ったが、わたしはそのときついよけいなひとことを言ってしまった。
「君にピッタリだと思って」
これはもしかするとひどく彼を傷つけたかも知れない。彼は自分が無能であるとわたしに思われているとひどく落胆したかも知れないし、それだけでなく怒ったかも知れない。 自分をそんなふうに見ているなら、もうCDも頼まれても買って来てやるもんかと心に決めたかも知れない。
しかし、一旦口をすべり出たことばは取り返しようもない。ひとつの希望的観測は、この本が世に有能と評価されている人たちにたいして「無能でいるのはこれほど楽なのですよ」と勧めているという点で、わたしが君にピッタリと渡したのはA君を有能と認めているからこそ…いいほうに取ってくれるということであったが、どう考えてもこれには少しムリがある。
どう理解したのかはまるで外には出さないで、A君は三、四日してから本を持って来た。読み終わったらわたしにもみせてと頼んでおいたからである。
「あっというまに読み終わっちゃったよ、これ」と言って差し出した。
わたしもあっというまに読み終えた。そして、自分がこうして無為に日々を過ごしていてもあながち悪くはないということを学んだ。有能と言われる人が現在の日本で高く評価されるとすれば、それはすなわち経済的価値につながっているからである。お金をたくさん稼げる人が有能とされていることになる。貧しい人よりはお金持ち、デキン坊主よりはデキる子供、仕事をしてはいてもさっばりウダツのあがらない人よりはバリバリこなす人、そして売れないお店よりは売れるお店。
必ずしも経済的観点からだけではなく、根本的な考えかたにもこの「無能の人」を勧める所以があるが、人を押しのけてまで甘い水を飲もうとする人よりはだれもがみんな飲み尽くした泉にポツンとひとりでたたずんでいるような要領の悪い人生もまたそれで意味があるということを教えてくれる。
この地域の所帯数に大幅な変動のないかぎり、そこから流出されるお金もまたほとんど一定である。どこかのお店でおかずを買えばその日はそれですんで、同じものをもう一度ウチのお店に買いに来るはずがない。明日はわからないが、明日もまたどこかへチラシに水先案内を頼んで行くかも知れない。行かないかも知れない。それはわからないのである。わかっているのは、ウチが売れない分ヨソで売れていてそのヨソ様の口をわたしがすすいであげているということである。これは一種の人助けである。まさに「無能」でいることは「有能」の引き立て役で、しかも有能な人にはわからないようにこっそりと彼の命をつないであげている。人生をただわたしのために生きるのはたやすいが、そうではなくほかの人の役に立つために生きるとすれば、たいへんに消極的ではあるが現在の状態でもたしかに目的は果たされている。しかしこれでは売れないことを肯定するような卑怯なにおいが強い。 わたしが今ひそかに考えているのは、不定期的にできるボランティアの活動である。ヒマな時間をこのために使いたいと考えている。