見出し画像

貸倒引当金

(平成二年五月)
 高校は商業高校学校へ行った。当然商業科目がある。簿記、計算実務、経営実務、商業実践、商業実習等々。もっとも今あまり役に立っているとも思えないが、まったく知らないよりはいくらかマシというほどのものである。
 三十年の間にその手段の進歩は目覚ましいものがあると思うが、 簿記の原理が変わったわけでもないし、商業を実際に行うのは人間であるから、基本的には商売の何たるかは人の本質が変わらないぎりこれからもずっと同じであると思う。
 石門心学をひらいた石田梅岩の弟子の手島堵庵という人の書いた「我津衛」で述べられている商売をする上での心得は、百年以上前の人もハイテクの進んだOAシステムの中で仕事をする現代人も何ら変わるところはないということを教えてくれる。人をほんとうに動かす力は、愛という目には見えないものなのである。
 これと同じで簿記の原理も変わらないと思うが、もしかすると設定する勘定科目にはいく分の変化があるかも知れない。工業簿記も習ったが、とくにめんどうな仕掛品という科目についてはその査定の方法に新しい見解が見出されたかも知れない。
 また、わたしが一年生のときに先生に質問 「貸倒引当金」についても、あの当時の純日本的な考えかたに基づいた設定ではなく、もっとビジネスライクになっているかも知れない。チャンスがあればその筋の人にぜひ聞いてみたいと考えている。 さて、わたしの質問の内容は。
 売掛金という科目に応じて貸倒引当金という勘定科目が設定される。 売掛金回収されないときを想定して、その全額でなくとも何%かを損金で処理しないですむようにという目的でこの勘定がおこされる。
 売掛金と性質の同じものに貸付金がある。これは小口の売掛金が束になってかかっても かなわないほどの高金額である場合が多い。しかしこれに応じた引当金の勘定科目はない。 返してもらえないときにはこっちのほうがずっとダメージが大きいというのに、である。わたしが疑問に思ったのはそういう点で、なぜ危険率のより高いほうにカバーの手だてを打っておかないのかということであった。 一学期が終わるころ、これまでの授業で何か質問といわれたときにわたしは手をあげ、このことを先生に聞いてみた。先生の答えは「貸付金というものは、人との信頼関係を前提にした性質という点で売掛金とはその重みが異なっていて、したがって、信用して貸すのであるから必ず返済してもらえると(ほとんど)確信しているのであらから引当金という勘定科目はおこさない」というものであった。
 そのときはそんなものかなと思った程度であったが、もし現在でもそのままであるならば、なんと日本的な考え方の根強さよ、と改めて思いなおさなければならない。無形のものを有形のもの以上にたいせつにするという純日本的な物の考えかたは、ある意味では非常に奥ゆかしく、わたしの好みからいっても決してばかばかしいものと言いきれないものがある。しかし一方、たとえば日本人が外国のバイヤーとの商取引の現場で、この「手」でいくと「あなたはほんとうに自分の商品を売る気があるのですか」と単刀直入に聞かれることうけあいである。 外国人には「あいまいさ」や「以心伝心」 「腹を読む」などということは非合理のサンプルのように思えるのではないかと思う。
 ところが、ここが日本人の頭のいいところ であると思うのであるが、最近ファジイ理論というのがあって、右なら右、左から左とこれまでどっちかの極端を選ばざるを得なかったところから、やや右よりというその「やや」を読み取れるような、融通のきくコンピュターが現れたというのである。
 貸倒引当金とファジィ理論がどこで融合するのか、あるいはまたしないのか、そしてその融合の場としてはやはり赤坂あたりの料亭が適当なのだろうか、などと際限なくわたし の勝手な想像が、もとの木からどんどん枝わかれして伸びていくかのように空に向かっていく。


いいなと思ったら応援しよう!