テストの経過
(平成六年三月)
「テスト?なんのテスト?わかんねえな」 と言ってなおもわたしから手を離さなかった人がその後しばらくしてから福島に単身赴任することになった。五年前のことになる。わたしがこのときに彼に発したことばは「あなた、テストされてるのがわからないの?」であった。今でもそのときの状況が目に浮かぶ。彼はわたしをしっかりと抱えて逃がすまいとしていた。
彼はこの地に工場ができた当初から営業所の所長として赴任し、以後十数年まったく動くことがなかった。それがわたしにチョッカイをだしたからか、突然それこそ晴天の霹靂とも言えるような辞令がくだったのである。
もちろん、わたしがこの突然の辞令を知っていたわけでもなんでもなく、ただ神の力を恐れてそういうふうに言ったのであるが、はからずもそのことばは当を得ていたことになったり、彼はその辞令を受け取ったときに数日前のわたしのことばを思い出したに違いなかった。 「そうだったのか。彼女が言ってた『テスト』の 意味がこれか」と。
その後しばらくしてから彼のオフィスに行くと、彼の後釜としてのでっぷりとした人が彼の占めていた席に座っていて、当の彼は従業員たちが休憩時に使う椅子に所在していて、何か異変のあったらしいことがわかった。そのあと事務員の女性から彼の辞令の件を聞いたのである。
偶然とは思えないことのなりゆきに、わたしは自分がほとんど無意識のうちに発したことばの中に真実が、それもドンピシャとも言える予見が隠されていたように思い、漠然とした不安にかられた。彼にこういうことが顕現した以上、共犯とも言えるわたしに何事もないはずがないと思った。
彼の仕事の終わる時間は早く、わたしの仕事の終わる時間などは夜中という感じであった。その彼が一度、これから配達に行くというわたしを、それもわたしはまったく知らなかったが駐車場に小一時間は車を止めていてわたしが外に出て来るのを辛抱強く待っていたらしく、わたしの姿をみつけるやすぐにそばに歩み寄ってきた。 そしてやや遠慮がちに配達が終わったら少し時間をあけてもらえないだろうかと言った。そのころにはお店には人手があったし、つききりでなくともも大丈夫な状態であったからわたしは彼の申し出を軽い気持ちで受け、少しの間ならいいですよと答えて彼につき合った。長いことここに車を止めて待っていたのですなど言わないことや、ずいぶんはにかんだようなようすで誘いのことばを述べる彼に、わたしがやや好感を もったことは事実である。
彼は横浜の出身らしいが、わたしは彼のことについてはあまりよく知らない。年はわたしよりはふたつくらいは若いという程度のことしかわからない。頭は悪くないはずであったが、すべてソツなくこなせるという能力の持ち主であることがうかがえる風貌である。 営業にコンピュータを導入する時期には、プログラミングに相当苦労していたようで、このときばかりは彼の退社時間はかなり遅くなっていたようであった。 わたしの仕事の終わる時間を詳しく聞き出し、いつならばもっとゆっくり話すチャンスをもてるのかとやっきになっていた彼にとってこの残業は家にも外にもたいへん好都合のものであったらしい。わたしはある日、店のシャッターを閉めたあと、彼が自分の仕事を終えてからわたしのところへ来るためには絶対に通るという道路 の状態がよく見える位置に車を止めて、彼の心の状態をはかろうと試みた。もし彼がわたしにたいして強い興味をもっているなら、おそらく時間の合うと思われる日はいつもわたしを訪ねるためにその道を通るはずである。
こちらがシャッターをおろしてしまうと、さすがに彼もどうしようもなく、そういう目にすでに何度か合っているはずであった。目をこらしていると、やがて見覚えのある高級車が静かに少し先を、わたしの家のほうへ向かって行った。確かにわたしの家のほうに曲がったのを認めて、別の道を通って家にもどった。これで彼の熱意のほどを確認できたわけである。 昼間買物などに来てもそういうことは口にせず、わたしに足もとを見られるのを恐れる彼のプライドまでもはかることができた。
そういうことがあってから数カ月の後、わたしと彼の間にはなんとなく通じ合うものが生まれるようになり、一度いっしょに湯どうふを肴にお酒を飲みに行ったことがある。 仕事の話や人をうまく使うことの苦労の話に終始したが、その帰り道、彼はわたしをボンヤリと赤いあかりのついているラブホテルへ連れて行った。わたしはこの近くでさえ不案内であったから、そこへ連れて行かれる道もよくわからなかったが、またそこがどういう場所か判明してからは彼をどのようにあしらうのがベストかをすばやく考えた。走っている車から飛びおりるわけにはいかないから、彼が車を止めるまではじっとしていて彼の第一声を待った。そのことばによって彼を判断しようと思った。「いい?」とわたしの同意を求めた。「ノー」とわたしは答え、続けて「こういうところに連れて来るのなら二度とつき合わないわ」と言った。彼は素直に車を出し帰り道にもどった。
浮気未遂に終わっても、あるいは未遂に終わったからよけいにか、彼はわたしに執心するようになり、わたしもまたあまり素っ気なくすることができないようなことになってしまった。日曜でもたったひとりで出勤して仕事をしている彼を訪ねたりした。そのうち実力行使にかかり、わたしの抵抗はあえなく無駄なものになった。
彼の突然の辞令の結果に不安を覚えたのはこのことに由来している。そのときにはわたしにはそういうつもりなどまったくなかったから、彼の強引な行為に腹を立て、木の床を蹴るようにして外へ出たが、うっかりと車のキーをオフィスに置いたままにしたことに気づいた。しかたなくキーを取りにもどると、彼は乱れた着衣を正しながらてれたように笑って「忘れ物をしないように…」と言った。そのことばにわたしはなおいっそうカッとして無言で彼をにらみつけ、改めて外へ出た。
わたしに課せられたテストは、彼の単身赴任と五分々々か、もしかするとそれよりももっとシビアなものであった。次女の非行である。詳しいことはここに書くのを控えるが、彼の単身赴任と時をだいたい同じくして、この重大な問題はわたしを死ぬほど苦しめ、しかもそれはお店に来るお客さんにはまったく無関係なことであるから表情にも出すこともできず、文字にもことばにも表しようのない重圧となってわたしにのしかかってきた。
洗礼まで受けたクリスチャンにあるまじき行いを、神がそのまま見逃すはずがなく、わたしはこの苦しみの中で神の公正な手を感じ、さらにそのうちからわたしにできるもっともいい方法をみつけだそうと必死になっていた。 そのためにはいくら辛くても、礼拝を休まないということを実行した。牧師のことばはいちいちわたしの心に突き刺さり、腰をかけている椅子のざぶとんでさえも針のむしろであった。すぐ隣にいる牧師夫人の顔を盗み見ながら「この人にはこういう汚れた悩みなどあるはずもないだろう」とますます自己嫌悪に陥った。苦しむために教会へ行くようなものであったが、行かないともっと不安になり、わたしは抜き差しならない泥沼にはいりこんだようなものであった。ただひとつの希望は時間が解決してくれるに違いない、ということだけであったが、わたしにはその時間がはたしてどのぐらいの長さのものなのかさっぱり見当もつかなかった。
夫とわたしの価値観の違いがそのまま子供の教育にも反映し、子供としてはどちらの言うことが正しいのか判断できかねる状態を強いられ、わたしの夫にたいする敵意はそのまま子供の目にいっそうの不安、不信を募らせたに違いない。こういう家庭環境の中で、次女のような感受性の強い子が順調に育つはずもなく、彼女の非行は即ちわたしの非行を映した鏡であった。わたしと夫の意見のくい違いはそのまま彼女の中で膨張した矛盾となり、その矛盾をどのように処理していいのかわからない彼女を苦しめ、たまたまそばにいた友達といっしょに行動することで安心を得たにちがいない。また、両親にたいする反発の気持ちは、自分がこのように行動すればきっと両親は自分たちの過ちに気づいてくれるかも知れないという期待に支えられていたに違いない。幸か不幸か、その過ちに先に気づいたのはわたしのほうで、夫はその過ちにさらにもっと犯してはいけない過ちを重ねてしまった。今でもわたしはあのときの夫の判断は間違っていたと思っている。いくら困っても、自分の娘の行動を諌めるために自分の兄妹の手を借りる、それもその職務を利用して、という手段はよくない。このことで娘がどれほど傷つけられたか、夫にはいまだによくわかっていないであろう。
朝、目が覚めてから夜、床にはいっても、四六時中苦い液を無理やりの口の中に流しこまれているような感じの数カ月が過ぎ、娘は高校をやめた。ひとつの結論にようやくたどりついた。家を出てひとりで暮らすことになり、その出発の夜、わたしは心から娘に謝った。夫にもどうしても謝ってほしいと思ったが、夫は謝らず、わたしにさらに「もうこの人をどんなことがあってもゆるすまい、信じまい」と強く心に決めた。
わたしに課せられたテストはこのような結果になったが、同じ時期にテストを受けた彼のほうの事情はまったく不明である。福島では無理をすれば月に何度かはこちらにもどって来られるはずの距離であるが、そんなことどころではなかったわたしはすでに彼のことは頭からすっかり切り離してしまった。ただ、見事なまでに的中したわたしの予見についての印象は強く残った。それゆえに、その後知り合いになり、本の貸し借りをするようになったM氏とのなりゆきにも強い神の味方を感じ、それを通り越して、わたしには何か特別な強い力が与えられているのではないかとさえ思った。
わたしに与えられた試練は死ぬほど苦しいものではあったが、このことによって得たものも大きい。自分が痛みを感じた分かそれ以上、他人の痛みがわかるようになった。とくに同じ問題を抱えている親の気持ちが自分のことのようによくわかった。痛みの感じかたにはもちろん個人差があるが、わたしほどの楽天家でさえも何にも代えがたい子供のことで悩むのは、それも自分がそのもとになっていると思うとよけいに辛かった。まだ肉体的に傷つけられたほうがましだと思い、いっそ明日が来なければいいと思った。これがすべて悪い夢で、明日、目が覚めたら「なあんだ、 夢だったのか」と安心できたらどれほどいいと何度も思った。そういう思いを、同じ痛みをもつ人もしているに違いなく、人がこの世に生きている限りはずっと続く課題である。 テストを乗り越えることで、わたしにはたいせつなことがわかったが、それでもまだその時点では不十分であったと思う。せめてもの救いは、娘がこのことで挫けないでより強くなってくれたことで、少なくともわたしよりは常識的に行動する人間に成長したということである。
前の夜に三人のお客さまが来て泊まり、床に就く時間が遅かったという次の日、ひとりでお店にいて出版ガイドを見ているうちについうとうとしてしまった。「こんにちわ」というあいさつと共に入って来た男の人の声に目を覚まし、反射的に「こんにちわ」と返してその人の顔を見て、わたしは非常に驚いた。単身赴任の任を解かれた彼であった。さいわい舟は漕いでいなかったので、彼はわたしが居眠りなどしているとは思わなかったらしい。そのまま目的の品のところへ行き選んでいるようであった。
「もどっていらしたんですか?」と聞くと、福島に四年半、その後新潟に半年いて、五年ぶりにまたこちらに就任することになったのだと言う。さすがに頭に白いものが目立ったが、顔は五年前と変わらず、わたしはお世辞でなく「ちっともお変わりになりませんね」と言った。「いや、年をとりましたよ」と彼が答えたが、「それはお互い様でしょう。わたしだって同じですよ」と言った。そういうわたしの顔をじっと正面から見る彼の目の中に、まだわたしにたいして持っている執心を見出だし、これはちょっと厄介なことになりそうだと思った。すると彼は「 昼間は出られないでしょうから、お店が終わってからでもまた、いっしょにお茶でも…」 と言った。わたしはあいまいに返事をして、心の中ではどうかそういうことが実現しませんように…と思った。そして、どうしても困るようなことにならざるを得ない、というなりゆきになっても、今は神に力を頼めばいいのだという確信に支えられ、一応の安心を得ることができた。