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ままごと
(平成六年一月)
近所の子供たちが来てお店の作業台で野菜くずを切り刻んだりする。はじめのうちはただ包丁を使うことを楽しんでいた感じだったが、そのうちだんだんエスカレートしてきて二度目くらいからレストランのシェフ気取り、店長、ウェイトレスの口まねになってきた。
たいてい二、三人で来るが、Aちゃんという女の子はひとりでもレストランを開店させる。 彼女は小学校の四年生であるが、そのセンスは飛び抜けて秀れている。まず盛りつけのセンスがよく、その出来あがったお料理につける名前もふるっている。どこでそういう名前をつけるヒントを得るのか知らないが、とにかくそれらしいネーミングを考える能力がある。
そのいくつかを段ボールの板にメニューとして書きだし、それぞれに応じお皿を用意する。たいてい円形に、対称になるように考えて盛りつけるが、もちろん色どりもよく考えている。これらの材料はすべてゴミのバケツの中から拾い出したものであって、大根の葉などもじゅうぶんに緑の役割をする。そのほか枯れた仏壇用のお花の中から黄菊の花びらやなど、およそ色のついているもので料理の材料になりそうなものはすべて生して使うことができる。わたしが最も感心したのは、生しいたけの黒くなったものにまわりに庖丁を入れて星形のものを作り、それ大根の台に立てて「椰子の木サラダ」という名をつけたものである。なるほど椰子の木に見えるから不思議なばかりである。茎の曲り具合まで本物の木に見えてくるのはなぜだろう。
わたしがレジで本を読んだりこうして文章を書いていたりするころを見計らって彼女たちが訪ねてくる。土曜日の午後に必ず来る。そして「おばちゃん、ねえ、包丁使っていい?」とか「〇〇使っていい?」 と聞いて、いろんなものを作り出す。作っているうちにだんだん夢中になってくるらしい。時間のたつのも忘れて外が暗くなるまでわからないでいる。
わたしにディナー券というものをくれて、このレストランのお客として来るように言う。プラスティックのコンテナをいくつか使った椅子とテーブルをしつらえ、わたしをそこに招いてくれる。小さいピンク色をしたメモ用紙と鉛筆を手にして注文を聞きにくる。
「〇〇と〇〇でございますね。少々お待ちください」と言って引き下がり、あまりすぐに持って来ると格好がつかないからとしばらく待たされる。
出されたお料理はどれも見事にできていて、最後には後かたづけをしなければならないから捨てられる羽目になっているが、これをそのまま捨ててしまうのは惜しいほどの出来であるけれども、惜しいと思うのはわたしだけであるようで、作った本人たちはそれほどに考えていない。要するに作る過程が楽しいのであって、出来上がったものをわたしに見せて「あら、すごい!センスいいわねえ!」とか「まあ、きれいにできたこと!」とかほめてもらえばそれで満足するのである。
ほめるだけではわたしが満足せずに、わたしはこれらの写真を撮ることを思いついた。ところが、作業台のある倉庫は薄暗く、フラッシュのついているカメラでないとダメらしかった。何枚かはプリントされてきたが、もう捨ててしまったお料理はここ へもどって来ることはない。 残念である。
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彼女たちは後かたづけをしたら 口々に「楽しかったねえ!」と感を述べあい、次に来たときに作るメニューに頭を働かせているようである。わたしはそれをお店の自分の席で聞きながら、彼女たちの「子供のころの思い出で印象に残っていること」の手助けをしているのかも知れないと思って悪い気がしない。
子供たちが口まねをするのは、彼女たちがその親たちといっしょに行くファミリー・レストランのウェイトレス、ウェイターのものである。お料理につける名前もおそらくそこからヒントを得ている。彼女たちの周囲にたいする注意の結果がこのままごとに実によく現れている。
子供が社会と関わっていくその関わりかたは、まず自分にいちばん近い人間、つまり親やきょうだいから始まるが、現代の日本のように文化が発展し文明も進んでいる国において、そのあとの社会との関わりかたには急速なものがあるように思える。ちょっと車に乗ればたちまち自分たちとは違う世界で過ごす人間に会って、そこから情報を得られるというわけである。交通の発達は情報とおおいに関係がある。
そして、何よりもテレビという情報の怪物の働きが大きい。家にいながらに自分とは違う世界を知ることができる。 生まれたときからすでにこの怪物が部屋の一角を陣どっているという条件下にいる彼女たちが、そこからなんと多くの社会を吸収することであろうか。一度驚いたのは、その中十才の女の子がSMクラブに関する知識を披露したときである。いわく「女王さまとお言い」の台詞、先の尖った色つきのめがね、は 言うに及ばずかかとの高い靴、ろうそくまで知っていて、それをなんの他意もなく口にするところがすごい。片方でお料理のままごとに夢中になるかと思うとさらりとそういうことを言うのはなんとしても理解できない。 もっとも彼女にSMのほんとうの意味や知識があるとは思えないが。娘は「なんにも知らないから平気で言えるんだよ」という。確かに。
暗いところを怖がり、ちょっとわたしの靴につまづいただけでも「ごめんなさい」と言うようなふつうの女の子が育っていってひどく曲がるとも思えないから、情報の過多はわたしが心配するほどの大問題でもないかも知れない。好むと好まざるにかかわらず、子供たちの脳に飛び込んでくる多量の情報の中から、彼らはどのように取捨選択をしているのであろうか。彼らにとって重要なものとして判断される、その基準となっているものは何であろうか。
自分がその年頃に何を大事に思っていたのか。私が十歳くらいの時代とこの子供たちの現在ではあまりに社会の情勢が違いすぎていて、たとえ思い出して比較しても何の意味もないように思える。