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弟の就職

(平成六年二月)

 奈良の弟は昭和二十六年生まれであるから今四十三才になる。一ヶ月前になったばかりである。その弟がパン屋の商売に見切りをつけてまもなく一年になろうとしている。さいわいお店の借り手がみつかり、比較的いい条件で譲り渡すことができた。厨房などそのまま使えるような商売を始める人に渡ったのは幸運であった。朝暗いうちから起きて仕込みを始めなければならなかったパン屋の仕事をやめると、しばらくは体と精神を休めるために家でのんび りすることにしていたらしいが、それもいつまでもというわけにはいかない。お金のなる木があるわけではないのである。
 ところがあいにく日本の経済状態は不況になり、おいそれと就職口がみつからないようなことになった。わたしの友達の子のご主人もやはりそれで苦労しているらしい。共に若いとは言えない年令になっているからよけいである。弟は何度も職業安定所にかよったらしいが、事務職ではなかなかむずかしく、求人の要請をしているのはほんとうなのかどうかとあやしまれるような会社もあるということであった。一時的な勤めではなくこれから生活を賭けて働くのであるからなるべく相性のいい職場がいいと欲を出すとなかなかそういう渡りに舟のようなわけにはいかなかった。たびたび電話をしてきてはこぼしていたが、つい最近、ようやく決まったと報告があった。花作りをしている農園の経理をみてほしいという所があるという。
 創業してからまだ年数の浅いらしいその会社は、社長が経理に疎く、利益が実際にあがっているのかどうだかがさっぱりつかめないままにこれまでに五千万円の赤字を出しているというのである。あとからわかった話では借入金のほとんどは先行投資のためらしく、稼働直前の広大なバラ園があるということでいくらか望みのもてそうな方向にある。
 会社の経営困難の原因がさっぱりつかめなかったらしい社長が、どうもこれ以上放っておくと収拾のつかないことになりそうだと懸念して、経理に明るいだけではなく、経営そのものの知識のある人間を求めていたその矢先、弟がそれに適任であると見込んだらしい。「助けてくれ」と言われたと弟が言う。社長は無農薬栽培などに意欲を持つ、どちらかというと理想家、夢想家の傾向のある人らしい。そういう人が実務から離れ勝ちになるのはやむを得ないことであろう。最初に話を聞いたときから、わたしは社長が経理に暗いのをさいわいと、だれか不正を働いている人がいるのではないかと疑った。電話で、しかも弟の話からだけでそういう判断をくだすのは非常に危険であったが、わたしがそう言うと、弟も自分もそうではないかと疑っているのだと言った。昨日今日入社したのではない、だれかかなり古くからいる人がよからぬことをしている可能性がおおいにあった。それには証拠があるわけではなく、ただ状況から判断した直感というものである。
 わたしは花のことはよくわからないが、野菜などと同じで相場に変動がありセリで値段の決まるものであるから、利益率は悪くはないはずだと考える。もちろん野菜と同じで、 ロスが出なければの話であるが、花は生き物であるから収穫してから出荷するまで鮮度を保たなければならない。それも野菜と同じである。いろいろ聞くとどこか大きなホテルの指定を受けているらしく、その残りを市場に 出荷するという比較的安定した商売をしているということである。それならば完全に利益が出ていいはずであるが、どうもこの会社のもっている小売部門の女性が不正をしているらしいことがわかったと、ずっと後で弟が報告してきた。
 もともとは経理を担当するつもりで面接に行った会社であるが、経理をある程度整った線までもって行くことが第一段階で、それにはさまざまの調査が必要である。その調査の途中でフラワー・アレンジメントという流行の職をもつ女の人の不正が明るみに出たわけである。金額はたいしたことはないが、それでも純利益の中から失われていく性質のものであるから痛手である。これについてはよく確めた上でその人から返済してもらえるように措置を取るつもりだと弟は言っている。
 経理というよりは経営コンサルタントの要素の強い弟の就職先について電話で報告を受けるたびに、わたしは弟の性格も考慮に入れながら自分がいかに冷静かつ公平に状況判断ができるかという、その訓練にたいへん役立つ材料だと考えている。

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