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自分と他者の境界線は、実は曖昧で揺らぎのあるものなのかもしれない。

「私とは、私を取り巻く関係性の総体」
先日の勉強会で伺ったこの言葉が印象的だった。

自分の好きな内山節さんは、「日本の伝統社会は、生者、自然、死者の3つの世界との関係性から成り立っている」と仰っていた。

昨日のエンドオブライフケアの勉強会では、自分の最期をどうしたいかを考えた時に、家族にとって納得感のある自分の死になれたらいいなと思った。

生者との関係性から死者への関係性への移行が家族に諒解されるということと言い換えることができるだろうか。

ここ数日で考えたことを並べてみると、実は自分というものの境界線は自明なものではなく、曖昧で、揺らぎのあるものなのかもしれない。そんなことをじわじわと感じている。

アドラーの共同体感覚も、実は自分と他者や社会との境界線が自明ではなく、揺らいでいる存在だから、出てきた感覚なのかなと思ったり。

先日伺った人間の細胞は食べたもので日々更新(つくりかえられている)という話と繋げてみると、自分は接している他者によって日々更新されている(他者が自分の一部)し、自分もまた接している他者を日々更新している(自分も他者の一部になっている)

そんなことをぐるぐる考えていたら、「自己実現」と言ったときの「自己」はどこまでの範囲なんだろう?とか、むしろ、「自己」ではない言葉で置き換えた方がしっくりくるのでは?とか思ったり。

こういうこと考えると、日常の光景の見え方や自分自身のありかたもなんか変わってきそうだ。そんな感覚を覚えている。

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