なんでもかんでもSDGsで括るのは、ちょっと無粋かもしれない。
「それって、SDGsですよね!?」
仕事柄か、地域での取り組みを聞いて、つい言ってしまいがちなひと言だ。
ただ、最近想うのは、いろいろな想いを込めて続けてきた活動を、その人らしい形での表現を、外野が勝手にSDGsという言葉で括ってしまうのは、ちょっと無粋なんじゃないの?ということ。
入り口やきっかけとして、SDGsという言葉を戦略的に使うのはアリだと思う。SDGsという流行フレーズだから、いろんな人の関心を惹きつけられる。SDGsという共通言語で新しいパートナーと繋がれる。政策と絡めて予算が取れる。こういうところでのSDGsの力は否定しない。うまく使ったらいいんじゃないの、というのが率直な感想だ。
他方で、SDGsという言葉が強烈であるが故に、なんでもかんでもSDGsで上書きされてしまうことで、かえって表現の多様性が、そして、その表現に込められた想いが、損なわれているような気がしてなんだか皮肉にも感じる。
SDGsというモノサシでひと括りにしてしまうことで、地域で続いてきたこれまでの取組みをかえってDiscourage してしまう。そんな危うさがないだろうか。
だからこそ、出口はSDGsじゃなくていいのだと思う。むしろ、SDGsという枠を取り払って、もっと自由な表現や在り方を大事にする。私はそっちの方が好きだ。
新しいモノサシや枠組みは、新しい視野を与えてくれる。けれども、それも行き過ぎると、今度は表現や思考の枷となってしまう。新しいモノサシや枠組みを取り入れつつも、傾倒しずぎず、どこかで手放すことが大事ではないか。そんなことが頭に浮かんだ。
よくも悪くもSDGsに染まりつつある。そんなこの世界で、そろそろ「脱SDGsの可能性」も考え始めてみようか。
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