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"チャレンジ疲れ"と筋肉痛

"チャレンジ疲れ"
まちの総合計画策定の話を聞いていて、出てきたこの言葉
興味深かったので、自分なりに考えてみたことをつづってみる

・チャレンジしている側以上に「チャレンジを見ている側」が
自分たちも何かしなきゃいけないの?という息苦しさのようなものを
感じているかもしれないという指摘が印象的だった。

・立ち止まって考えてみると、「○○疲れ」や「○○痛」は、とかくマイナスに捉えられがち。じゃあ、ポジティブな疲れとか痛みはないの?と、考えてみたら、筋トレ後の筋肉痛は嬉しい(むしろ、筋肉痛なかったら、ちゃんと筋トレ出来ていたのか不安)し、心地よい疲労感もある。疲れや痛みを不快とだけ結びつけるのではなく、「疲れ」「痛み」×「快」の組み合わせの中に何かヒントがありそうな気がする。

・画一的な「主語」をイメージするのではなく、多様な「主語」をイメージしてもいいと思った。「みんな」にとって不快じゃないとか目指すと、どうしても最大公約数的なディフェンシブなゴール設定しか出来ない気もするので。あと、世代間の多様性だけじゃなくて、世代内の多様性にも光を当てることが大事だなと。

・「チャレンジ疲れ」へのアプローチとしては、チャレンジの「量」、「質」、「速さ」あたりの変数・ギアをどうする?という話がパッと頭に浮かんだ。でも、たぶん既存の変数ではなく、新しい変数で考えることが大事な気が。

・そもそも、これまでの多様な動きとこれから目指している動きや状態を「チャレンジ」という既存の言葉でくくることの限界を感じた。「チャレンジ」という言葉で大きく括った時に生じる、個々のイメージとの間に生じる違和感が、「チャレンジ疲れ」の原因なのかも。


という話をしていたら、そもそも「チャレンジという概念の再整理が必要だよね」という話を伺った。

これはすごく納得で、次の一歩はここからだなと思った。

「自分たちにとってのチャレンジって、何?どういうこと?どんな状態?」
そんなことを語り合ってみるところからはじめてみたい。

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