「川のこがれ」をこがれ生きるぼく
ぼくが大学2年生のときの話だ。所属している合唱団の練習で「川」という曲に出会った。
「川」は曲集「水のいのち」の3曲目に収録されている曲で、詩は高野喜久雄、曲は髙田三郎による。「水のいのち」は校内の合唱コンクール以外の環境で合唱に触れたことがある人ならば100%の認知度を誇るのではないかと思うほどの人気曲集であるが、範囲を一般にまで広げると0.1%の認知度に満たないそんな曲集である。
そんなわけで、大学から合唱をはじめたぼくは多分に洩れずその「川」という曲を存じ上げなかった。どんなもんかいのと軽い気持ちで楽譜を追いながら音源を聞いた。
軽率な行動だった。詩が濁流のように押し寄せてきた。すっと入ってきたという感じではなく、無理やり流し込まれたという感じだ。流れ込んできたのはいいが、別に言っていることを理解できたわけではない。けれどもなんだかとんでもないことを語っているぞという気持ちだけが残り、曲が終わった後、ぞくぞくとした感情が湧き上がってきて「これはやばいですね」と狂気じみた顔で先輩に語りかけていた。先輩には引かれた。
著作権うんぬんのことはよくわからないが「川」の全文を引用する。詩を読んだあと、よければYoutubeの音源も聞いてみて欲しい。
何故 さかのぼれないか
何故 低いほうへゆくほかはないか
よどむ淵 くるめく渦のいらだち
まこと 川は山にこがれ
きりたつ峰にこがれるいのち
空の高みにこがれるいのち
山にこがれて 石をみごもり
空にこがれて 魚をみごもる
さからう石は 山の形
さかのぼる魚(うお)は 空を耐える
だが やはり 下へ下へと
ゆくほかはない 川の流れ
おお 川は何か
川は何かと問うことを止めよ
わたしたちもまた
同じ石を 同じ魚(うお)を みごもるもの
川のこがれを こがれ生きるもの
なにを感じただろうか。ぼくは何かを感じたが、当時それを言葉にはできなかった。この記事は現在25歳のぼくが当時20歳のぼくの感情を思い出しながら「川」に流し込まれた衝撃を言語化してみようという試みである。
何故さかのぼれないのか
川は何故さかのぼれないのか。上から下へ流れるしかないのか。そんなことは考えたこともなかった。水は上から下へ流れる。重力があるのだ。当然のことだ。孟子先生だって「水下らざること有る無し」とおっしゃっているではないか。
議論の余地がないように思われるその問いには、なぜだか明確な怒りがこめられている。不思議だ。川は己がさかのぼれないことを怒り、いらだっている。どうして低い方へゆくほかはなないのか。何故最初から決まっているのだ。俺が決めたわけではないぞと。
考えてみれば、ぼくが決めたわけではないのにすでに決められてしまっているということが世にあふれている。生まれた場所であったり社会の仕組みだったり。環境もそうだが、ぼく自身のことだってそうだ。ぼくがぼくの得意なことを決めたわけではないし、ぼくがぼくの性格を決めたわけでもない。どうしようもない自分の性質、体質、どれもぼくが決めたわけではないのだ。
川は己の性に怒っているのだ。己の性質を受け止めず疑念を持ち、何故かと問うている。それがどうしようもなくかっこよく感じてしまう。普通そんなこと疑問にも思わない。自分のことも、自分を取り巻く環境のことも、なんとなく受けれてしまっている。何故自分はいずれ死ぬのかと怒っている人をぼくは見たことがない。
空にこがれる
下へゆくしかない川は上を目指し、山と空にこがれる。下るしかないものは遡ることを求める。そして石と魚をみごもる。大きな石は川の流れを変化させ川底をえぐることで、ゆっくりと川の上流へのぼっていく。マスやサケなどの遡河魚は産卵のために海から川の上流を目指す。自分の中に、自分の性に逆らういしを宿す。これは、どうしようもない自分をどうにかしたいというまっすぐなあがきに感じられる。
川のこがれをこがれる
川ってかっこいいなどと思っていると、詩の後半、川は何かと問うなといきなり言われる。手厳しい。川をかっこいいと感じる自分の発見は、同時に自分が川と同じこがれを持ち得ることを教えてくれる。
どうしようもないものに逆らうという姿、下る運命にあるものが空にこがれる姿、それはどうしようもなく人の心をうつのだ。それは自分も川のようにありたいという気持ちの表れでもある。
けれど実際は、ただ下に流される。だからこそ人は川のこがれをこがれるのだ。いつかこがれるだけではなく、みごもった魚が川を登るまで。
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