「カランコエの花」 -後悔できる心-
下北沢のトリウッドで「カランコエの花」という映画を見た。
LGBTを題材としているけど、本筋はLGBTと違うところに流れているので、そういう話に興味がないなとおもっている人にもおすすめできる。
とてもおもしろい映画だったので興味がある人は見てほしい。上映している劇場は限らているので公式サイトで確認していただきたい。
この記事の構成を読み進めるほどネタバレが多くなっていくようにしていく。なので、興味が出た段階で読むのをやめて劇場に向かうのもいいとおもう。
リアリティ
まず驚かされるのは高校生たちの会話だ。この会話における言葉遣いや温度間、そこで生きる生徒たちのコミュニティの中での役割などがいたいほどに懐かしい。ノスタルジーというよりも、あのころの若さを思い出し気恥ずかしくなる。それくらいリアリティがある。
自然さ、というものを演技するのは難しいとおもう。ステレオタイプとして誇張してしまっても、共感は呼べるがつくりもの感が出てしまう。その難しい課題を見事にクリアしていて、いったいどういう撮り方をしたのだろうと考え込んでしまった。
全体を通してのお話も、仕掛けはたくさんあるのだけど、これはドラマだからという都合のよさがない。本当に起こりうる可能性としてのリアリティがあって、同時にそれは現実の残酷さも含んでいる。
取り返しのつかないこと
高校生には取り返しのつかないことが日常的にやってくる。この映画の登場人物たちのほとんどが少しずつ間違った選択をして後悔をしている。
いろんなことを認めてあげられなかった10代のぼくは、多くの人を傷つけていたことを思い出した。あのころに否定し拒絶してしまったこと、そうして与えてしまった傷は取り返しがつかない。あとで自分が馬鹿だったことを理解し、とても後悔したことも覚えている。
後悔して、あのときはそうするしかなかった、と自分を正当化してしまうのは簡単だ。難しいけどやるべきことは、取り返しがつかないことを見つめて、自分が間違っていたことを認め、謝り、自分をまっすぐに保つことだ。
後悔というのはとても苦しい。でも苦しいというのは心が正常でないサインでもある。少なくとも、間違いだったことに気づいているし、もっといい方法だって思いついているのだ。後悔を感じられるそのまっすぐな心を大切にしたい。言い訳で塗り固めて自分の心がわからなくならないように。
取り返しはつかない。許してもらえることは少ないだろう。けれどまっすぐ生きてきたかな、と高校生の自分に問いかけてくる映画だった。ぼくはまっすぐに答えられない。