幸せは2種類あるんじゃないか
幸せってなんだ
最近成長ってめっちゃ大事な幸せの要素だなと思った。
ただダラダラ動画を見ているということもできるんだけどそれだと、内側が拒否感を持ってくる。
何か成長したい。
なんでかよくわからないけど健康的に生きたい。
健康的というのは肉体もそうだし精神もそうだ。
そうすると今度はまた他人というものも自分の中で大きいと思うようになった。
俺が幸せになることが第一だけど、他人も幸せに生きてほしい。
道に迷っている子供たち本当に多いと思う。
そんな子を見ていると僕の道ってなんだろうって改めて考えさせられる。
幸せという言葉あまり好きではなくて、幸せにはいろんな固定的なイメージがついて回るし、強迫観念もあるので、人生がプラスになることと言い換えていたりしたんだけど、人と話すときにいちいちこう言っているとめんどくさかったので、いわゆる"幸せ"ということにして話を進めたい。
今、幸せかどうかは自分の解釈次第
全然今が幸せじゃないと思うこともできるんだけど、事実をつらっと眺めてみたり、自分勝手な自分を作ってみると幸せでないとはとても言い切れない。
色々と足りないものとか、コミュニティが死ぬほどあるかと言われるとそうではないけど、所属しているコミュニティの人は別にいい人だし、庶民的ではあるが好きなものを食べることはできるし、今は時間もそれなりにある。
ただ自分を眺めた時に、幸せでない、ということもできるなとも思った。
そう思えた瞬間に、今まで自分がなんとか外してきた鎖とかが手足を縛って、死神の鎌が首元に当たっているように感じた。
自分勝手に生きるようにしたから俺はこの辛さを忘れられていたんだと思った。
自分主体でなかったり自分に都合の悪いことを自責してしまうと、ものすごい重い荷物を背負っている感覚になる。
これも足りないあれも足りない。
あれもできない、これもできない。
自分の人生にマイナス評価ばっかりつけてしまう。
でも今や過去が満たされていると仮定すると、ここから加点方式なのだ。
だから成長したくなったりしていたのかもしれないと思う。
幸せを求めるためにはまず幸せになること、なのかもしれない。
少なくとも自分の都合よく正解を捉えてしまう見方をするというのはかなりいいと思う。
僕は、ナルシストになりたい人のyahoo知恵袋を読んで、めちゃくちゃ目が覚めた。
物事には裏表があるし、いつも悪い面ばかり見ていたけど、それ自体がしんどい。
もういい面ばかり見ようと思ったし、無理やりいい面を見る訓練をしていると案外自分勝手になれるものである。
これができないのではなくて、これ以外はできるだし、これ以外ができるということは俺って優しい、イケてる、すごいになる。
今を満たすと、なんかもうちょっと欲しくなる
そうして今を満たすと、無欲になっていくようにも思う。
なぜなら今が心地がいいし、自分にできるようなことしかしないから。
自分の身の丈に合っていることしか選択しない。
都合がいいことしか選択しないからだ。
しかしそうなってくると逆になんかできるようになりたいとか、なんか頼られたいとか、なんかすごいって言われたいとか、なんかお助けマンになりたいとか、そんな気持ちが現れてくる場合がある。
自分がそうだ。
幸せを考え始めたのもこれが原因だ。
ふんわりと自分ができるようになりたいことが幸せについてだった。
でも他にもなんとなくできるようになりたいことはいくつかあって、英語とかピアノとかもそうだったりして、やっていたりするんだけど、それ以外にも役にたつ何かをしたいし、何をするのが自分にとっていいのかというのを、改めて考えてみたくなった。
幸せは頑張ってなるものという固定観念
少しここまでを整理すると、自分の中で幸せのために行動を考えようとしていたし、幸せとは頑張ってなるもののように思っていたけど、案外そうではないような気がした。
幸せが人生のベースにあるのではないかと思う。
幸せだから他の行為がしたくなるということだ。
幸せは自分を変えることで得られる場合も多いと思うが、環境を変える必要がある場合もある。
環境が自分に合わない時は、その際も自分を変える必要自体はあるが、その際でさえ自分の都合のいいように行動するだけでいいのかもしれない。
幸せの外的阻害要因
ベースとなる幸せを阻害する要因はいくつもあるが、自分中心に物事を考え始めることでそれらの問題を解決することはいくらかできる気もする。
例えば人間関係であるなら、きつい性格の上司からの叱りやパワハラでしんどいなら、そいつはしょうもないやつ認定してしまえばいいし、なんならそれがおかしいことを言っても良い。
そんな人がいない場所を探すことだってできるはずだ。
自分都合で人間関係を再編すればいい。
この時、経済的な状況を無視することもあるが、経済的な状況は自分勝手に生きる上ではそんなに問題にならない。
家族とか、仲間、社会という人間関係が経済的な状況をしんどさとリンクさせていく。
また経済的な状況は社会階層を示すようにも僕らの中にインプットされてしまっていて、悪口が悪口というだけで心を傷つけるように、金がないというだけで意味がない人間のように思ってしまうこともある。
これは比較対象である社会があること、市場経済という話の中にいるから起こることで、金を稼ぐ人は卑しいと言われていた時代ではそんなことは起きないし、宵越しのゼニは持たないことが美徳な江戸時代だってそんなことを気にすることはなかっただろう。
結局金がないなら金を稼げるようになんとか死に物狂いで努力すればいい話だし、人間、ある程度生きていける稼ぎがあるなら意外とそれで満足だったりする。
一旦そんな感じで自分都合で物事を再編すると、色々と失っているものがあるはずだ。
例えば親しい友人がいなかったり、愛し合う恋人がいなかったり、子供を育てるお金がなかったり、誰かから頼られるようなスキルがなかったりする。
その再編をうまくやると、あれもこれも意外といらなかったんだなで終わることもあるんだけど、実際問題以外とそうはならないかもしれない。
でもそれでいいと思う。
まず一番大事なところを組み立てることのほうが大事だと思うんだ。
自分都合で物事を再編すると、ストレスフリーで自分勝手で何かが足りていない自分が生まれることだろう。
でもストレスフリーなんだから今からその欲しいものを得に行くことだってできるのではないか。
足りない自分と二つの幸せ
幸せについて外部要因を整理できて、自分自体もやりすぎなくらい肯定できて、ぬくぬくしてみたら、なんだか惨めになったり、なんか足りないなって思ったり、もうちょっとできるのになって思ったりすることもある。
ぬくぬくしていて、ゲームをしたりして一生が終わる人もいるだろうけど、その人はその人で満ち足りているのだから問題ない(周りはなんとなくソワソワするかもしれないし、その人が本当は満ち足りていないけど、腐ってしまってそうしている可能性もあるのだけど)。
ただ、人生のどこかで、なんか嫌だなとか、なんかもっとできるのになとか、このままの人生でいいのかなとか思う時が来ることは多いと思う。
僕が何をしようかなと思ったのはこの段階だと思う。
基本的な幸せというのが前提としてあって、ここから先はプラスアルファなんだけどなんとなく足りない感じがしてしまう幸せの部分だと思う。
僕は人間、この二つの幸せを混同している場合はすごく多い気がしてしまう。
基本的な幸せとは心の傷を完全に治すことではない
基本的な幸せというものは、どちらかというとストレスを減らすものであって、自分を根本から肯定したりとか、自分が過去の様々なことから根本的に回復するようなものでもないと思う。
例えば、何か幼少期におったトラウマは、この自分本位な整理によって消えるものでもないし、パワハラによって統合失調症になってしまった場合もパワハラがなくなったりその人から離れることができてもすぐに病気が治るというものでもない。
ただ、現状だったり、過去から引き継がれてきたストレスに対して、薬やセックス、酒やタバコ、ゲームや動画、お金や自傷行為など、依存的なものでなんとか心を保つという状況をしなくていいようにすることだと思う。
依存症自体も、それ自体がストレスになってしまうと思うけど、少なくとも回復に向かいたいなと思えるように自分をするということだと思う。
心とか体におった怪我は治っていないし、そこを押されるとこれからもずっと痛むことになるだろうけど、今はそこまで痛くないし、その痛みを誤魔化すためのモルヒネが必要というほどでもない。と、この状態までは持っていきたい。
そのためにセルフヘルプグループとか、NPOとか、精神科とかそういう場所につながっていくということも大事だと思う。
こういうところにいたりすると、自分の傷を埋めるようにして行為をすることで基本的な幸せと応用的な幸せを同時に回復することもあると思うんだけど、基本的には、なんらかの行為を通して基本的な幸せ、心の電池を回復していく。
その後に残った傷とかがこの後の応用的な幸せへと続いていくことはあり得る気がする。
基本的な幸せを完全に満たさないといけないというわけではない
基本的な幸せというもの自体を自分の中に形作るのはものすごく難しいと思う。
健康な人間でさえ難しいのだから、過去にまざまなトラウマを抱えて精神疾患を発症してしまったかたなどにとってみるとより難しいものである。
視野も狭まり、何もしていなくても死にたくなってしまったりするかもしれないし、今やっている活動に意味を感じられなくなったり、しんどいなと気分が落ち込むことも、動けなくなることもあるかもしれない。
そう言った場合、基本的な幸せを回復するときに、自分ではなんとかすることが難しかったりするだろうし、その場合他者の介入が必要になることもあるだろう。
その時の介入が現在行われているものを見ると、まず自分を肯定できるような環境にいることだったり、自分を肯定できるようなマインドセットを作ることだったり、自分を肯定してあげられるような社会的経験を積むことを志向している気がする。
例えば認知行動療法や、デイサービスなどは、個人性のある幸せを回復する場所というよりも、回復のための一般的な自己肯定感を身につけるものが現状だと多い気がする。
それが悪いということではないし、全く違うということもあると思う。
ただ意図的に自分がどこに向かって努力をして、どういう自分を手に入れたいのかなんて負荷の高い話はしないと思うし、個人性を大事にする時も、その人がやりたいと思ったことをやってみるとか、やりたいことってなんだっけとか、そういうことから始めるはずだ。
もちろんこの時点から個人性の高い応用的な幸せを目指しているような関わりもあるのだけど、まずは基本的なところを回復させようという感じが個人的にはする。
しかし、必ずしも、基本だけをやっていればいいということでもないと思うし、応用的な幸せに資する行為をすることで基本も応用も回復していくということはある気がする。
まだ基本的な部分を回復しきれていないような方が、行為を通じて、自分の足りない部分を補うために努力したりとか、自分の足りないところと向き合うことで基本と応用の幸せを回復するということは全くあり得ることだと思う。
自助会の方がその運営だとかピアサポーターとして働くことで元気になったりするというのは、基本的な幸せと応用的な幸せが揃っている感じがある。
だから基本的な幸せも全て完全に回復しないと応用的な幸せを目指してはいけないということではないし、基本的な幸せ感を回復するために応用的な幸せを考えるということもありそうである。
ただ、基本的な幸せを充実させるようなマインドセットがなく応用的な幸せを求めると、まず自分本位がないために、応用的な幸せを社会規範に照らして選択してしまって、達成したはいいものの燃え尽きてしまったり、自分に合っていないからなかなか成果が出ずストレスを抱えたり、自分勝手さがないあまり自責が心に負荷となって辛くなってしまうということがあると思う。
まず生きてるだけで丸儲けとまでは言えなくても、外的要因を取り除いて俺は俺のことだけ考えるよと言えるような、ストレスフリーさを持ち、できれば辛い精神状態から脱しておきたい。
それが基本的幸せの意味するところなんじゃないかと思う。
応用的な幸せのためにまず欠乏感を見てみる
心に傷はあるかもしれないし、まだ完全に自分を信用できていないかもしれないけど、なんとなく意味ある人生にしたいと思えるようになった。
逆に自分勝手に生きることができていたんだけど、なんだかもう暇になってきて、何かを目指したい、なんだか人生をもうちょっと良くしたいと思うようになった。
そう言った時に応用的な幸せという概念が現れるような気がしている。
要は、自分って何したいんだっけとか、自分ってこれからの人生どう生きていこうという問題のことだ。
例えば、誰かから必要とされたいなとか、もうちょっとお金が欲しいなとか、なんかみんなに自慢できる自分でありたいなとか、そう言ったことがこの段階の話であると思う。
とにかくストレスでいっぱいだったり、自責や辛さでいっぱいになってしまって、基本的な幸せが欠如しているわけではない。
そんなに辛くなくなってきた。
でも、なんか足りない。
だったり、この心の傷をなんとか埋めたい、取り戻したいという場合もあるかもしれない(なんでもいいから埋めたいとなると、少し心配なところもあるが)。
少なくともなんとなく欠乏感があって、そこに対して努力をしたり、何かを得るための行動をしたいと思うことが一つの目安ではないだろうか。
多くの人は自分の心の声に気づくという努力を意外としない。
必要がない人もいるんだけど、どこかで欠乏感を感じているから激しく行動をしている場合や、行動を放棄して引きこもってしまう場合もあると思う。
今は今のままでもそれなりに快適だけど、なんか足りないぞとなった時に、それを一旦受け入れるということをしてみてほしい。
もちろんこの足りなさを無視することで応用的な幸せを排除して、基本的な幸せだけの世界で生きていけるので、これで十分であると言いながら過ごすこともできる。
でも任天堂のスイッチの後継機も出るからお金貯めるために同じソフトずっとやっていてだんだん飽きてきた。
なんだか暇だ。
そんな人は、暇つぶしにその足りなさを受け入れてみてもいい気がする。
これが足りないならこれを足してみようとするだけだからだ。
足りないことを恐れる必要はなくて、足りてないことを見てみぬふりをするとそのまま今の人生を生きることになるわけで、足りないことを見て何か得られれば、プラスにしかならない。
マイナスになることは一つもないのだ。
応用的な幸せとガチな行為
こういった応用的な幸せという概念は、あんまり行為にガチになれない概念である気がする。
だって、まぁやらなくても損しないけど、やったら得するみたいな、ポイントカードくらいのものに思えてしまうから。
この応用的な幸せの部分には、ガッチガチに行動するような経営者たちの行動や、出世のために本気を出す会社員の行動、好きな人に振り向いてもらうための努力とかそうしたガチ感のある行動も含まれそうである。
そして実際問題、自分もなんとなくガチ感のある行動をしたいなぁと思えるようになってきたからこそ、何をするのかが問題になるのだ。
基本的に満たされたのち、例えば部屋を綺麗にしたり、自炊をできるようになったり、ゲームに真剣に取り組んでみたり、ちょっとピアノを触ったり、英語を勉強したりするようになった。
そしてその間の時間は動画が時間を潰してくれる。
しかしそれらは、毎日毎日が積み上がらない感じがした。
なんとなく役に立つ成長ではあるけど、積み上がりはしない。
本気で英語をやろうとおもったある日、動画を制限しようと思った。
エンタメは大好きだし、人とふざけること、楽しむことは大好きなのだけど、動画に消費される時間を英語に費やしてみたくなった。
英語が積み上がっていく様をみてみたくなった。
そういうふうに思うと、英語だけじゃ人生が回らないということにもなんとなく気づいて、人生にとっても経済的にもプラスになるような行為もしようと思えるようになった。
そこで行為を整理したくなった。
なぜガチっぽい行為をしたくなったのか
いくつか段階に分けて考える必要があると思う。
まず、なんでピアノじゃなくて英語をやろうとしているのか。
なんでゲームをやっているのか。
まず前提として、ある程度暇である。
だから何かをやろうと思っている。
そしてこれは応用的幸せに入るのかもしれないけど、幸せなんかあんまり意識していない。
一旦、時間があるし、なんかやるかと思えたのだ。
そこで自分がやってみたくてなかなかできないことを選んでピアノと英語と言っていた。
過去の自分の考えのおさらい
死ぬ間際のことを地震のおかげで想像できた
何をやるかを考える時、なんとなく自分の中でこれやらなかったら後悔するかもなというのがありありと想像できたものを選んだ。
どうやら地震が起きるよとなった時に死ぬ自分を想像できていたみたいでその時に思いついていたらしい。
コアが社会的なものと分けられていると言っていて、このコアというのが正直どういう感覚かあんまりよく覚えていないけど、多分人生におけるテーマとかそういうことだと思う。
応用的幸せとの関連でいうと、応用的幸せの方がより自然体で必要に迫られている感じがする。
僕はこの時、コア、人生の方向性が欲しくなっていたのだと思う。
これも基本的な幸せが充実したからだと思う。
自分がこの行為をしたい理由は自分が見たいから
他にも自分が見たいものが見たいとも言っている。
これは結局自分がしたいようにしたいというのと似ていて、自分が見てみたいものを自分で作ったりしているということだ。
なんとなくうっすら行為をしていて、でもそこにガチにもなりきれていなくて、だからコアが欲しくなっていた。
自分の中でなんでこんなことやっているんだろうということが問題になっていた。
この行為は一体なんの意味があるんだろうということだ。
自分はなんでこういう行為をしたいと思っているのか。
なんでこういう行為しがちなのか。
なんで暇だからと言ってこの行為を選んでいるのか。
何か意味があるのか。
ここでは、結局自分が自分のできるようになった姿を見てみたいという欲求が比較的強いのではないかということでその行為を意味づけている。
つまり、僕がこれをしたいと思うのは、これができるようになる姿を見てみたいだとか、何か見てみたいものがあってそれのために行為をする傾向があるということだ。
コツコツすることと他者が介在するとモチベーションある
ここまでで、自分が何がしたいのかを自分の死期を悟ることで感じ、その行為がなぜしたいのかを自分が自分を見たいからという理由で説明した。
そのうち、そう言った自分なんとなくやりたいと思えて、意味づけをなんとなくした行為をコツコツと積み上げたくなってくる。
なんとなく、面倒だなという行為とか、嫌だなぁという行為もあったようで、それに比べて、積み上げてできるようになっていく様子が見られるものがやりたいと思ったそうだ。
結局流れとしてはそんな流れがあるようだけど、結論、なんだか本気で英語をやりたくなった。
そして英語とピアノの二択があった時に、現実世界で役に立つ行為をしたくなった。
ここで自分は、例えばみんながモンハンやっているならモンハンがめっちゃ楽しくなるように、みんなで麻雀打つために麻雀のルールを覚えるように、人とつながるとか人が関係することでモチベーションの一つになっていることを理解する。
ただ、今まで自分勝手に自己評価を大事にしようと頑張ってきた、他者評価に踊らされてきた自分としては、また他者を介在させることが怖かった。
しかし、ここから数日くらい時間をあけて、やはり人を念頭に置く行為のモチベーションが、孤独のためのモチベーションとは比べ物にならないということに気づき、英語を勉強し始め、動画を見ないようになった。
ここまで行為というものにガチになるまでに、自分本位な人間になること、自分のやりたいっぽいことを見つけること、なんでその行為をやりたいのかを理解すること、ちょっとずつ成長するやつが好きってことに気づくこと、他人がモチベーションになることを理解して初めて行為が発生している。
なんと面倒な生き物なのだろうか。
スタートアップ界隈では行動が大事と言われるけれど、僕には到底無理な芸当だろうと思う。
(閑話休題)行動力と感情への自信
行動力の人はこれが好きと思ったらその行為ができる人だし、この行為のこの方法が好きと分かったらその行為ができる人だと思う。
僕はこの行為が好きっぽいけどわからない。僕はこの行為をこういう理由でやっているのだから好きなのか納得。こういう行為なんか楽しいけど、なんでやるんだろう。コツコツやったり人が関係しているとモチベーションが上がるよね。と自分の感情や感覚を信じることができない人間なのである。
行動力のある人とか、じゃあやればいいですねと行動できる人はこの感情の受け取り方に自信がないことが多いと思う。
それは今まで自分の中で感じたことの通りに動いてみて、苦しかったことがあったかもしれない。
自分の選択や自分の感情が信じられなくなるのだ。
そう言った意味で行動力がある人は自分の感情に自信があるんだと思う。
僕はなかった。
だから長いことかけてその自信を取り戻してきた。
他者軸から自分軸になるように動いてきた。
しかも行動力の人は心と体の体力があると思う。
自分の選択に全ベットするような体力とか自己効力感とか時間の使い方だ。
いくつもの行動にコミットできるならパッと思いついた時にコミットし始めるけど、人と関わるのがしんどかったりすると特にできて一つの行為にしかコミットできなかったりする。
人と関わるのがしんどいのに、人がモチベーションになるのが人間なので、一人では何もできずに終わったりする。
私である。
ガチっぽい行為と応用的幸せ
多くの企業でも、国でも、人は行為をすることによって幸せになるというような話がされることが多いと思う。
より多くを稼げとか、より多くを学べとか、より多く行動しろとか、ガチっぽい行為がその先にある幸せを手にいれる唯一の方法のように思わせてくる。
好きなことをして生きていくにしても、結局行為の中で好きなこと、やりたいことをやる方がいいじゃないかと行為がそこに前提として横たわっている。
だから行為ができないとしんどくなったり、自分を責めたりする。
でも基本的幸せが充足している以上は、あなたはもう幸せであって、その先に応用的な幸せがあるだけだ。
だからガチっぽい行為を推奨する時に、学ばないと、働かないとやばいですよと言ってくるようなメディアは僕は嘘だと思う。
なぜなら、ホームレスだって、ニートだって、ゆったり暮らすためにフリーターを選んだ人だって幸せには暮らせるからだ。
そう言ったメディアや発信者は、結局のところ自分自身の立場を強固にするためだったり、ビジネス系の本を売るためだったり、もしくは日本という国や自分の会社のためにあなたを働かせるためにそう言った言葉を使うのだ。
実際問題リスキリングが今後就職するには重要だとなっているのは、本当だと思うし、なかなか頑張らないと仕事につきにくいというのも本当かもしれない。
でも、それは自動化や高度化によって社会から単純な仕事が減っているということや日本の経済力が人口減少で落ちているということも関係しているわけで、別にあなただけが悪いわけではないし、スキルを身につけないあなたはヤバいというのも尊大な煽り文句なのである。
コミュニケーションの分野では、最も初期の頃の反ワクチン派(明らかなデマを含んだり、科学的でないもの)とワクチン派の文章で、反ワクチン派の方が感情に訴えかけるようなものが多かったと言われている。
ワクチン派の文章は「その時点でわかっている(ここが大事だ)」科学的なデータを正確に伝えて納得してもらおうとするせいで、文章量が多く感情に訴えることはなかった。
それゆえ、感情に訴えかけるような文章とかみやすい構成とかが大事だとようやく言われるようになった。
マーケティングなどではもっと前から当たり前なことだし、プロパガンダなんかではとうの昔に敵国の悪い情報を流したり恐怖を煽るようなコマーシャルはずっと行われている。
兎にも角にもガチっぽい行為をしないと幸せでないというのは誤りであると言いたい。
応用的幸せ
①「欠乏感」
じゃあ応用的幸せと呼んでいるものは一体なんだろう。
僕としては広く欠乏感を埋めるようなものなんじゃないかと思っているが、自分の中での行為の目的はどうやら今のところ、死ぬ前にやってみたいことを自分ができるようになったらどうなるか知りたいからやっていて、人や成長のコツコツと積み上げる感じのやつがちょっと面白い感じがするしなんだか健康的な感じもするからやっている。
そんな感じだと思う。
以前動画などを自分から禁止した時に感じた空虚感はなんとなく行為をエンタメ化することで耐えているような気がする。
例えばホリエモンはなぜあんなに働いているのか、死ぬことが怖いかららしい。
いっぱい好きなことして働いていれば、何も考えないかららしい。
同じようなことをまふまふも言っていた。
頑張ることができる人には、こうした大きく空虚な欠乏感や劣等感がそこについている可能性もある。
例えば親からいつも罵倒されてきた人は、誰かに必要とされたいと思うような欠乏感を持つかもしれないし、いじめなどで非常に傷ついた心を持った人はそう言った心を癒したいと思ったり、正義を実行したいと思うかもしれない。
ドラマでも大概犯人の動機は昔あった嫌なことが原因だったりする。
そして基本的幸せが応用的幸せを満たすための行為で回復していくのもこう言った事情が関係していると思う。
社会の役に立つような英語を学び始めた自分の欠乏感もここに関係をしているように思えた。
②「遊び」
基本的に満たされてきてもなんだか満たされないという時に、行為は遊びの代わりをしてくれる。
しかも社会的に意義があったりお金の代わりになったりする遊びである。
研究だったり、プロ野球選手だったり将棋棋士だったりプロゲーマーだったり、配信者だったりはなんとなく遊びを仕事にしてる感じがしたりもする。
まだ売れていないお笑い芸人は焦りと楽しさが一体となっているようなそんな場所ですごく行為や人生が遊び的であることを示しているように思う。
彼らは、ライブを行なってお笑いをする。
それが楽しいのである。
楽しいから麻雀に行ったり、一緒に飯を食ったりする。
サークルの延長のようなそんな楽しさと、m-1という真剣さが一緒になって遊びへの健全性も担保されていたりする。
ただ売れないということに対して焦りを感じる人もいて、結構活躍しているユニットでも解散していることをしばしば目撃する。
自分の中でやり残したこと、自分の中でやってみたいこととして英語をやることを決めたのもこの遊び的意義に含まれるような気がする。
遊びはどう言った行為のこと?
欠乏感はわかるとして、遊び的意義はどう言った行為に生まれるのだろうか。
よく経営者がいう熱中しなさいという言葉とか、好きなことで生きていくとかそう言ったことに近いと思う。
しかし確定的なものでなくてよくて、なんかこれやらないで死ぬの嫌だなってことが一つはあると思う。
バンジーやってみたいなとか、東京ドームのライブで舞台上がってみたいなとか。
そんなことでもいいし、なんだか無駄に興味があることだったり、もうちょっと知りたいこととかでもいいと思う。
ここでのドライバーは好奇心だったり、楽しさだったり、笑いだったり、面白さだったり、勝敗だったりする。
人には人のドライバーがあって、そこが行為の源泉になっている。
簡単に言っちゃうと、やりたいことやってみなよってことだし、やりたいことってやるためには努力がいるからガチっぽい行為になっていく。
プレデターになりたかったら、apexに本気で取り組まないといけない。
他人を幸せにするにはどうするのか
自分は今行為を行うことで、感情的なアドを取ろうとしているのだと思う。
なんか褒められたりとかもしたいし、普通にやってみたいことをやってみたいし見たいな。
結局のところ自分一つのことではあまり大したことが言えていない気がする。
では例えば、自分が今まで出会ってきた人々の幸せのためには何ができるだろうか。
例えば、引きこもってしまっている人には何ができるだろうか。
留年を重ねてしまう後輩には何ができるだろうか。
会社に対しては何ができるだろうか。
家族のためには何ができるだろうか。
人に幸せになって欲しいならまず自分から
こう言ったことに対して答えがないのは、自分が自信を持って幸せだと言えないからだと思う。
僕たちは本気で幸せになってみてもいい。
現実の非情さに心を痛めて、仕事に疲れて、家でゲームをする。
なぜなら人間に幸せなんて訪れないからと諦めたから。
現実問題そうとしか考えられないから。
ちょっと楽しいことやちょっといいことが友達との間であっても
「まあまあ落ち着け俺、ただいっときのことだ、ほらみたことか一瞬で終わってしまったし、彼らとの繋がりもどうせどちらかが結婚したら疎遠になってしまうのだ」
と思ってはいないだろうか。
仕事というものに対して、辛いもので労働で頑張っても意味のないものと割り切ってはいないだろうか。
自分の思う幸せなイメージ
幸せな日本のイメージは、みんなが基本的に満たされている。
そして、もっと世界や困難をポジティブにとらえられるようにする。
仕事もプライベートも全部楽しめること。
ダサいこととか恥ずいこととか、人を傷つけてしまうこととか、自分が病気に苦しむこととか、誰かから嫌なことを言われることとかいろんなことがあるのは仕方ない。
もちろんよくないことはみんなでなくしていくしかない。
普通にやめてよって言えるようにしたい。
なんでそんなこと言われなあかんねんとか、上司に言えるようにしたい。
それだけじゃなくて、僕らがいるよっていう存在が誰もについていて、そして、なんだかみんなのために頑張ろうかなと思えたりとかして、自分の成長を喜べたり、相手の成長を喜べたり、結構集中的に頑張ってみたら成果が出たり。
なんかそれって、エイペックスの大会とかでよくvtuberが演じているようなことだったりするけど、よくよく考えてみたらそれって会社でもいいし、日本という国でもいい。
なんなら世界だっていい。
まず日本から始めよう、それが無理ならまず会社から、それが無理ならまず友達から、家族から。
でも正直職場が一番それがしやすいと思う。
会社を選べば自分と似た人が所属しやすいし、友達の相談は乗ってあげることしかできないけど、仕事は具体の処理まで手伝えたり、他の手を打ったりすることができる。
最後に この幸せ論だけでは足りない
この文章で言ってきた幸せ観と、最後に出てきた幸せ観は少し乖離があるかもしれない。
でも、結局はみんなをハッピーにするにはどうしたらいいのかに興味がある。
そのためには自分がハッピーでないといけない。
そのためには、今までの幸せ観だけでは足りない。
ただ今を満たされていると消極的に思って、消極的に行為で応用的幸せを満たすだけの人生という捉え方をもう少し変える必要がある。
それでは、なんだか僕らは科学的な感情を冷めた目で見ていて、全然楽しくなさそうだ。
僕の性格からしても、無理して楽しむタイプでもないし、子供の頃より遊びは面白くなくなったとも思う。
でも、なんというか心から、人生ええやんと思えるようにしたい。
これは欠乏であり遊びである。
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