
内密出産とダサい僕
内密出産に関する動画
内密出産と意味について感情が昂ったので書いてみたいと思う。
基本的に内密出産に関して頑張っている人がいて、素晴らしいなと思ったということと、それに対して僕が何か力になりたいと思った時にいつもの発作で、行為への態度とか意味があるかといった観点でその動機を精査し始めたことが主題になる。
要は僕も頑張りたいなって思ったけど、いつも通り、ほんとに頑張りたいの?ともう一人の僕が言い始めたということである。
頑張っている人と頑張れない僕の滑稽な対比を楽しんでいただければと思う。
きっかけになったのは以下の2本の動画だ。
国民民主党の伊藤孝恵議員のyoutubeチャンネルで、投稿された動画でめちゃくちゃ前に投稿されているし、動画の再生数としてもそんなに回っている方ではないけど、これをみて、まぁ自分を情けなく思ったし、僕の心は意味の議論を引っ張り出そうとしてきたので、なんか書きたくなった。
いとうたかえちゃんねるとは
伊藤孝恵チャンネルについて少し説明しておくと、国民民主党の議員が運営しているチャンネルで、僕からすると、議員って正直ちょっと常識が通じない人がなる物だと思っていたので、こんなことまで話してしまっていいのかと思う内容が新しく、玉木チャンネルは政治チャンネルっぽさがあったのであんまり見てなかったけど、こっちの方を先にチャンネル登録をして、秘書が進退に悩んだりしている動画とか、国会議員の秘書が主人公のドラマを見る動画とかを見ていた。
草彅くんがやってたドラマは僕も見ていたので、ゲームさんぽみたいな動画だなと思いながらもかなり個人的にはいい企画だと思った。
僕の中のyoutube年表では発表できるくらいお気に入りの動画だ。
そんなこんなで、面白いチャンネルだなぁと思ってみていたものから出てきた動画というのが先ほどの動画であった。
内密出産とは
内容の説明を簡単にしてみる。
望まない妊娠をした妊婦が、特に若い妊婦がそれを誰にも言えずトイレなどで出産し、そのまま児を殺してしまうというような事件を報道で見たことがある人がいるのではないだろうか。
そこで始まったのが、赤ちゃんポストというもので、そこに誰にも言えないママが病院に赤ちゃんを預けることで嬰児殺を予防するものである。
平成19年(2007年)から令和5年3月までの16年間で170名の赤ちゃんが預けられたそうである。
これ熊本の一つの病院の話だけでこの数である。
この時点で少し考えさせられる。
しかしながらいくつか問題点もあり、出産を終えた赤ちゃんを預けるので、特に若い母体には負荷の高い出産というものを安全に行えるかどうか難しい。
また、いつ産まれた赤ちゃんなのか、誰から産まれたのかについて、不確定であったり、それを調査するのも倫理的な問題が発生したりする。
内密出産とは匿名で出産をすることを望む母親が特定の人にだけ身元を明かして出産することであるという。
要は、子供が自分の出自を知る権利を確保しながら、母親は病院で内密に子供を産むことができるというものだ。
母親にはいろんな事情がある人が多いそうで、それは想像に難くない。
しかも児童虐待死のうち最も多いのが、産まれたばかりの子供を殺してしまう嬰児殺でほぼ半数を推移している。
また法制化がされておらず、内密出産を行うと逮捕される危険性が過去にはあったということであり、これに関する法律が提出される予定らしい。
https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000822367.pdf
内密出産に普通に泣いたんだが
内密出産というものの背景を知った時に、僕の頭の中には、若い高校生や中学生の母親が公園や施設の多目的トイレで死ぬ気で出産をし、それをどんな思いをしてか預けている様子、またその背景に家庭における問題などが横たわっている様子が想像された。
ドラマとかでも良くあるようなシーンではあるものの、それが一つの地域、一つの病院で16年で170人もあったということに、あまりに重い何かを感じた。
人が死ぬと数字で発表されたりして、うわぁすごい亡くなったなぁと思ったりして、その人たち一人一人の死を想像することはなかったりするし、戦争などでの報道でもそれが多いのか少ないのかわからなくなったりする。
一人以上から「多い」のだけど、僕たちはそれすらわからない。
でもこの問題に関しては先に背景を想像できていたところに数字が出てきたので、「え…………」
と思った。
普通になんか泣いた。
なんだかそんなきつい思いをしている人がたくさんいるのに何を僕は呑気に生きているのだろうと、過去に何回も思ってきた感情をまたリアリティを持って思ったのである。
意味を問うぼく
そうなると、そうした社会問題とかに関わりたくなったりして行動を何か起こせないかと思ったりするのだけど、そこで愚かにもやっぱりここで行動を起こすような脳のモードになることの意味を僕は問い始めた。
自分に対して、兎にも角にも行動を起こそうという自分に対して、本当にそれで大丈夫そう?
それだと極論今の仕事も辞めることになるけど、君大丈夫?
みたいな。
この赤ちゃんポストを作った先生は蓮田先生と言うのだけど、信念で生きているし、目の前に命を救わなくてはと思ったそうである。
僕なんかは思わない。
そんな場面に出会わない。
信念で生きていると言うのを見て、めちゃくちゃかっこいいなと思ったし、そう生きてみたいと思った。
なのに僕は、心の中でそれって大丈夫?他の方法とかもない?それじゃない方法もあるんじゃない?とか冷めたことを心の中で言っている。
そしてその大きな原動力が意味論である。
意味があるかどうかを僕の心が問うている。
意味があるに決まっている。
でもこの意味はその意味ではなくて、僕の心理的な意味である。
それが本当に向いているの?とかそれで本当に俺は幸せなの?とかそんな意味を僕が問うのだ。
情けない限りである。
ジャンプするのは簡単だけど現実的でありたい
かっこいい人たちと、情けない俺がいて、それもなんかめちゃくちゃ人生だなと思う。
じゃあ僕はどうしたいのかと僕に問うて、「こうしたい!」とカッコよく言い放って、それで何も振り返らずに行動する僕が産まれたら一番いいのだけど、現実を見ると違う。
こうしたいと言い放ったその次の瞬間からすぐにクエスチョンが生まれる、本当にそれで良いのかと。
最高に崇高でかっこいい、人助けというものと、それの前でもじもじしているこの僕の対比はただひたすらに滑稽なのだけど、じゃあ人助けに奔走する僕がいいのか、それとももう少し現実的に自分の幸せを探る自分がいいのか、そこにきちんと真剣になりたいと思う。
追い込まれ型のモチベーションの発揮
多くの人は、正直言ってこの現実的に自分の幸せを探っているように思う。
でもそこには、ゆったりとした時間が流れていたりもする。
惰性になったりもする。
伊藤たかえという議員は、どうも僕が大学院で学部を変えた時みたいに、追い込まれて議員になったような感じらしい。
なんかしんどすぎて、しんどいことをエネルギーに議員になって今もしんどい議員をやっているっぽい。
僕からすると、頑張ってるしなんかいい感じな人生だなって思えるんだけど当人がどうかはわからない。
めっちゃ睡眠時間とか少ないんだろうなって思うし、なんかよくわかんないけど風呂場で泣いてるらしい。
僕も、大きな決断をするときは、何か追い込まれてすることが本当に多かった。
僕にとっては、これはなんとも情けないのである。
辛いことがあまりないということでもあるのだけど、もっと覚悟を持っていきたいなと思う。
しかも現実的な方法で。
意味の議論と行為への態度
結局のところ、意味というものが事後的に決定する性質が強いことはなかなか正しいと思う。
となると、行為への態度が問題になる。
行為への態度を思い浮かべると、例えば大学受験の時に頑張ったあの感じとか、大学院受験の時に頑張ったあの感じとか、そう言ったものが思い浮かぶ。
もしくはワクワクすると思っていろんなところに飛び込んだあの感じとか。
逆に、今の僕の持っている行為への態度というのは、ここ数年でずっと僕の中で批判に晒され続けてきて、これじゃあ嫌だなと何度も何度も思ってきた。
でもここから変更するだけの根拠を得られていない。
もちろんじゃあ変わればいいじゃんなのである。
うん。
そう。
でも、なのである。
「でも」と言ってしまうのだ。
行為への態度
行為への態度とはなんなのかを考えた時に、行為への覚悟の有無ではないかと思った。
僕がイメージする行為への態度というのは、例えば朝起きてだるいから二度寝をするということを許す態度もあるし、逆にアラームが鳴ったら飛び起きて頬を叩いて単語帳を勉強するような受験生的な態度もあると思う。
僕は大きく分けるとこのやる気のある態度とやる気のない態度の二つくらいしか行為への態度がないんじゃないかと感じた。
行為への覚悟のあり方はすごくいろんなものがあって、これはやらない、これはやるとかそういうやるやらないの覚悟もあるし、メールに対しては即レスするとか、子供が泣いたら絶対起きるとか、毎日必ずメイクするとか個別具体的に行為への覚悟が決まっているものもあれば、明日死ぬから全部やり切るとか、後悔のないように生きるとか、この受験だけを考えて生きるとか、このプロジェクトだけはやり抜くとか、全体的な行為に対して覚悟を決めることで個別具体的な行為への覚悟を自動化しているものもある。
例えば、デジタルデトックスというのは行為への態度のまさに例であって、絶対にスマホやパソコンなどを見ないぞという行為への態度を決め切っているということだ。
逆に言えば、行為への態度が必要のない行為は行為に対して何かを決め切るということが必要のない行為ではないかなと思う。
例えばスマホを見てしまうなんていうのは、デジタルデトックスが見ないことが覚悟なのだから、覚悟がなくても見てしまえる行為と言えると思う。
過去に行為を行う時には、決断をしている形跡がないと議論をしたことがあったけど、決断は行為を行なったことによって確認されるものなんだと思うし、行為への態度、覚悟はおそらく自然に勝手にやっちゃうもの以外には必須の精神的作業なんじゃないだろうか。
そして行為によって必要な覚悟が異なるというのもあって、嫌いな上司に会うのと、友達に会うけどちょっとめんどいっていうのだと流石に友達の方が覚悟が不要だ。
だから行為への態度は、各行為に対して行うものでもありながら、全体的にこれくらいのしんどさのものにはきちんと対応しようと、ある種覚悟の数値がこれくらいまでなら行為をしようと決めることでもあるなと思った。
行為への態度の不在
そして僕の状態はまさに今行為への態度が不在である状態だと思う。
100まで覚悟がある中で、1覚悟を消費するものしかできてない。
行為への態度が不在の場合、基本的に行為を逃している。
行為への態度が不在の場合、めちゃくちゃ損じゃないかと思うかもしれないが、これを僕が選択しているのは、疲れるかもしれない、意味がないかもしれないと言った理由だ。
今、行為への態度が何であるかを考えることができたことでこれらの問題はあんまり大きな問題ではなくなったかもしれないが、いわば行為への態度について考えることができなかったことが行為への態度が不在であった原因ではないかとも思う。
まとめ
ダサい僕がいて、そこには行為への態度が不在であったという課題があった。
そしてそれは行為への態度、覚悟を決めるという作業に何の意味があるのか、ものすごく怖いものへ投機するようなもののように思えていたけど、実際少し考えてみると、行為への態度は、行為をする上で必要な覚悟のエネルギーを前もって想定することであるように思った。
そういうふうに思えると行為への態度への恐怖心は少し和らぎもしかしたら、内密出産とかをやっている人たちみたいに動けるようになるのかもしれない。
いいなと思ったら応援しよう!
