木を見て森を見て、そして杜に立ち返る
なぜだか解らないけれど、昔から杜が好きで。
神社の木々は、何か違う。
ここからは清らかな場であること、互いに連なることで神秘性を保っているような、そして光までも味方につけている。
なんとなく好き、が功を奏し、長男はS杜、次男はK杜と毎日何度も呼ぶことになった今。
そして最近、ふと思ったのが
「木を見て森を見ず」細かい部分にこだわり過ぎて、大きく全体や本質をつかまないこと
このこどわざを聞いた時。私にとっての本当に見ていたいものは、ただ木が集ったものではなくて、木と土とがつながって、ひとつの杜を形成するような、そんなものを見ていたい。
私がコミュニティマネジメント(コミュマネ)を好きなのも、その見たい世界がある気がして。
木が森というコミュニティになってきた時、木の集りというだけでは無い自覚が、より豊かな循環を生むのだろうと。
私は木として生えていて、私は土としてある。
どこまでが木なのかなんてことは問題ではなくて、木と土とで杜が創られ巡っている。
コミュニティマネジメントの世界も、この巡るということが根っこにあり、そして、木を見て森を見て、その先に・・・何を実現したいのかに立ち返ること。コミュニティにマネジメントを機能させるのは、その『何を実現したいか』に紐づいている。
ただ木が集っているだけでは境目を気にする時期が必ずきてします。領地はどこなのかを気にし出した途端に、争いが起こり安心安全が崩れていく。
だから、本来は地続きで、木と土が巡る杜に立ち返ること。どちらが表でも前でもない。全体の中にワタシがいるよというその事実に立ち返る。
木を見て森を見て、そして杜に立ち返る
【コミュマネダイアリー】macco