クリ×ノンクリの「健全な」交際を考える
(2015年10月3日 Facebook投稿記事より *異性愛を前提とした記述になっている箇所がありますが、歴史的検証の意味で当時のまま再掲します)
某カタログに掲載された特集「ユース世代の今を考える」から。hi-b.a.センターで行われた「男女交際」についての学びを経て、参加した17~20歳のクリスチャン4人がディスカッション。性教育の重要性についてまったく異論はないが……。
えーっと、……どこからツッコみましょうか。ノンクリの妻は、ひと言「怖い」と申しておりました。世俗にどっぷりの恋愛観もいかがかと思いますが、さすがにこれは……。
要は、クリかノンクリかの問題じゃなくて、互いの性と生をどれだけ尊重し合えるかって話でしょ? それを単純に「キリスト教の性倫理」や「聖書に記されたルール」のみに置き換えて「他人に言われたから別れた」とか、逆に「牧師に勧められてつき合った」とか「牧師に言えないことはしない」とかってなると、それは違うんじゃないかと。アブステナンスの考えはカウンターとして意義あると思いますが。
ノンクリだって「結婚まではしたくない」男女もいるわけで、だったら話し合えばいいじゃないかと。FBには「ノンクリの男性は、常に必ず野獣のように襲いかかってくるだろう、という憶測や偏見を率先して蔓延させるオトナたちは、ほんと勘弁してもらいたいです」とのコメントをいただきました。
もう一つ心配なのは、「絶対に一対一にならない」「体の距離だけでなく、心の距離もとる」「深く感情が入りすぎないように」「二人きりで会わない」「グループでつき合う」っていう恋愛をして、本当に幸せな結婚なんかできるのかと。いざ結婚したら「こんなはずじゃなかった」ってならない? 「二人きり」になって初めてできる親密な話もあるだろうし、「口では言うけど行動が伴ってない」とかの欠点にも気づけるだろうし。そもそも、異性に対して「距離を置く」ことを是として勧めるってどうなの? 肉体関係は別として、バリア張ってたらいつまでも互いの理解が深まるわけないじゃないかと。
しかもその基準を「クリかノンクリか」にしてしまったら、ちゃんと自分の頭で考えて、ここに与えられた出会いが果たしてどんな意味を持ち、この相手は自分にとってどんな存在なのか、といったことをちゃんと判断できにくくなるのではないかと危惧してしまうわけです。杞憂ならいいんですが。
伝道って、基本的に「ノンクリ」相手ですからね。「ノンクリは危ない」(=クリは安全?)みたいな先入観を持っているうちはムリですよ。クリスチャン夫婦の離婚とか牧師のDV、不倫なんかフツーにありますからね。つまり、聖書の記述を引っ張って婚前交渉や同性愛の是非を云々することの危険性ってあるんじゃないかと。 個人的には以下の記事で、北中先生による発言に深く同意するものです。
連投のきっかけは某カタログ誌だったわけですが、実は根底では問題が共通していて、つまり「クリ至上主義」なわけです。クリスチャンであるかどうか、キリスト教の本家本元(キリスト教系の老舗企業が関わったもの)であるかどうかによってのみ評価がなされることって、変じゃないでしょうか? 当たり前ですがクリにだってダメ男はいるし、ノンクリにだってちゃんとクリ女性を幸せにできるイイ男はいるわけです。同様に、セキュラーな(業界外の)世界にもイイものはいっぱいある。色眼鏡を外して「イイものはイイ」と評価できなければ、いつまでたっても教会は「井の中の蛙」です。
言うまでもなく、それと同じだけ「劣悪なもの」「害悪を含むもの」もセキュラーな(業界外の)世界にはいっぱいあって、その割合は確かにキリスト教の「外」のほうが多いかもしれません。でも、だからこそ、それに対抗できるような免疫力(リテラシー)を養わなければならないんじゃないでしょうか。雑菌にまみれた「外」の世界との接触を断っているだけで、免疫力は育ちません。日々、雑菌にまみれて失敗を繰り返しながらも本物の「手触り」「味」「価値観」などを体験していくことこそが大事なのではないでしょうか。そして、どうしても取り返しのつかない失敗だけは未然に防ぐ必要があります。
「純粋培養」タイプって一歩間違うと命をも顧みない「戦闘民族」にもなれる素質を持っていて、逆に外部からの攻撃に対する耐性が低く、想定外の環境変動、アクシデントによる迷いや揺らぎに適応できない脆弱性があります。元カルト信者の社会復帰は容易ではありません。道徳の教科化への懸念も同じです。