日本がもし40人のクラスだったら(2002年版)
小学校教員時代の拙文を再掲。(2002年「PTA通信特集号」第55巻より)
日本には約1億3000万人の人がいますが、もしもそれを40人のクラスに縮めるとどうなるでしょう。
40人のうち20人が女性です。20人が男性です。
6人が子どもで、34人が大人です。そのうち7人がお年寄りです。
おとなりのカンコク組には、15人の人がいます。アメリカ組は85人です。
そしてチュウゴク組は、なんと396人もの大人数クラスです。
日本組のお年寄りは、今は7人ですが、15年後には10人、
45年後には13人がお年寄りになってしまいます。
34人の大人のうち21人が働けますが、1人は仕事がなく、失業中です。
でも、日本組は他のクラスとくらべてもお金もちです。
給食もたくさん食べるので、8人の大人は太りすぎです。
子どもも、もちろんお金もちです。
1年間にもらうおこづかいは1人7万7000円。
ひと月に6000円以上もらっていることになります。
が、まずしいエチオピア組では、大人が1年間はたらいても、
1万2000円しかかせぐことができません。
日本組の人たちは、赤ちゃんをのぞいて、全員が文字を読めます。
でもアフガニスタン組は、かりに日本と同じ40人のクラスだとしても、
25人の人は文字を読むことができません。
日本組では、30人が仏教を信じています。
でもほとんどの人が、クリスマスにはケーキを食べ、
お守りをたくさん持って、正月には初もうでにも出かけます。
純粋にキリスト教を信じている人は1人いるかいないかですが、
カンコク組では、15人のクラスメートのうち4人がクリスチャンです。
「学校は社会の縮図」だとよく言われます。けんかや話し合いなどを通じ、友だちとの人間関係をつくったり、お互いが共存するためのルールを決めたり、といった「社会性」を養わせるのが、今日の学校に課せられた大きな使命の一つです。
他方、「学校の常識は社会の非常識」とも言われます。たしかに学校は、いわゆる企業の論理や企業社会の要求からは独立した場所にあり、教師の専門職性が充分に発揮されるべき特別な領域です。しかし学校が、一般社会や世間の時流からまったく隔離され、作られたもう一つの「社会」の中に、子どもたちを囲い込んでいるとしたらどうでしょう。教師自身、常に立ち返ってみる必要があると思わされます。
少なくともこの男子校に通う子どもたちは、日本に半分いるはずの「女の子」がいない環境で、かつ日本社会ではまだまだマイノリティであるキリスト教を教育理念とした学校に生活しながら、命を脅かされる危険もなく、充分生きていけるだけのお金と教育環境を授けられた、至極「恵まれた」子どもたちです。その中で認識できる「社会」には、やはり一定の限界があると言わざるを得ません。
では、奇しくもその「社会」に、ひと足早く足を踏み入れることとなった私たち「大人」にできること、教えられることは、いったい何なのでしょうか。私自身の貧しい経験から言えることは、自分にとっての「当たり前」が実は「当たり前」ではなかったということ、そして、自分はこんなにも狭い世界にいたのか、自分はこんなにも小さな存在だったのかということ。そうしたことに気づき、それを肌身で感じる経験が必要だということです。これは、福島の片田舎から「首都圏」に出てきた私自身の実感でもあります。そうした経験が、他者理解の第一歩であり、ひいては信仰の原点にもなると思うのです。
自分のクラス(自国)だけでなく、隣のクラス(隣国)のこと、そして学校(地球)全体のことまで考えられるような、本当の意味で「広い視野でものを見」る、「グローバル」な感覚を身につけてこそ、「本学院に喜ばれる」子どもから、「神様に喜ばれる」子どもへと大きくはばたけるはずです。そうして初めて、本校が果たして本当に「世界一」かどうか、という問いの答えも出るのではないでしょうか。
《参考》
池田香代子再話 C・ダグラス・ラミス対訳『世界がもし100人の村だったら』マガジンハウス
吉田浩著『日本村の100人の仲間たち』日本文芸社