これまで、個人としても、仕事としても、”社会教育”に携わってきたと思っている自分がいる。
”携わる”=”何かを行う”時に「社会教育をしよう」とはあえて言わないけれど、一つ一つの活動が、その本質的が、”社会教育”だと思っているという感じ。
”社会教育”をどうとらえようと、それぞれの考え方があるとは言え、例えば、誰かと共に活動をしようとする時、"~感じ。”では、活動の本質が、伝わりにくく、共有しにくい。
著書やネット上には、どのように言葉として表されているか、まずは、調べてみようとう思う。
インターネットで調べると、最初に登場するウイキペディア。
多くの人がまず最初に目にする言葉は、どう書かれているか…
この文章によると、社会における公的な学習機会。
「場」で区分けると学校教育と家庭教育と領域を分けられているようだ。
社会教育法は、社会教育を学習する機会に、よく目にする言葉であり、この言葉が原点なのだろうと思ってきた。
この文章によると、学校の教育課程と分けた組織的な教育活動。
対象が、”主として青少年及び成人に対して”とあり、子どもから成人まで全てが対象者であることが記載されている。
※ここで、新たな疑問。”組織的な教育活動”とは何を指すのだろう?
概要を読むと、『社会教育』という言葉が、『生涯学習』に変換されてきたことが記載されている。
社会教育は、主として青少年から成人を対象となっていることから、人の生涯を対象とした教育と言い換えることができるかもしれない。
そして、その機会をつくる上では、社会課題や地域課題の課題解決に向けての取組みという点から『教育』と言いたいところだが、実際には、その機会(場)に参加するかどうかを決めることができるのは、個人の主体にかかっていることから、『学習』という言葉が受け入れやすいのかもしれない。
こう考えてみると生涯において、学習できる環境、機会、社会課題、地域課題から内容の提案をすることが、『社会教育』と言えたりしないだろうか。
そう考えると、私は、『社会教育』は『人権』と同じくらい、人が生まれ、生きていく中で、根本として大事な要素だと思う。
(つづく⇒)