#010 エログロと表現の自由
ときおり「表現の自由」について話題になります。
つい先日も、
東京都知事選の選挙ポスター掲示板に、
いかがわしいポスターが貼られました。
で、東京都迷惑防止条例違反の(疑いの)警告を受けて、
候補者自らが、
そのポスターを剥がすという滑稽な出来事がありました。
不特定多数のひとが往来する場所に、エロいポスター。
もちろん、そんなものは「表現の自由」なんかじゃありません。
「表現の自由」は、
「表現を享受する自由」とセットだからです。
つまり提供する側と受容する側、
双方の権利が守られることを前提に成り立つ自由が、
「表現の自由」だと、わたしは思っています。
観たいひと(聴きたいひと)が、
その作品・著作物を購入、鑑賞するための対価を支払い、
限られた場所で観ること(聴くこと)において、
提供する側の「表現の自由」と、
受容する側の「表現を享受する自由」が認められる。
わたしは、そのように解釈しています。
ちなみにわたしは学生時代、法学部に在籍していました。
卒論は『映像猥褻論』というタイトルで執筆しました。
芸術か? 猥褻か? その境界線と限界について書きました。
いわゆるエロにおける「表現の自由」についての卒論です。
芸術なんていう高尚なモノと、
猥褻という「お下品」なモノ。
そもそも、かなりの距離があります。
また、その時代・国や文化・慣習によって、
社会的な認識も、個人的な認識も、ぜんぜん違います。
法制度も、法解釈も違います。
しかしわたしは、
どんな「お下品」な作品であっても、
年齢制限などをクリアしている受容する側が、
対価を支払って鑑賞する分には、
「どうぞ、ご自由に」と思っています。
もちろん、観たいひと(聴きたいひと)に限っての話です。
「表現を享受する自由」には、
観たくない(聴きたくない)という権利も含まれます。
なので、その「お下品」な作品を拒んで、
まったく観ない(聴かない)のも、
わたしは「どうぞ、ご自由に」と思っています。
要するに「享受しない自由」です。
ですが、受容する側ではなく、
提供する側に対して、わたしは思うことがあります。
エロい作品も、グロい作品も、
制作者(制作サイド)にその目的を訊いてみたいです。
「どうして?」という質問に対して、
「ショッキングであればあるほど注目されると思うから」
「一躍有名になりたいから」などと回答されたら、
「なるほど」と納得できます。
むしろ「がんばれ!」と応援したくなります。
ですが、
「どうして?」という質問に対して、
「表現の自由の限界を云々」とか、
「社会に対して云々」とか、
尤もらしく語り出すひと、
わたしは個人的に嫌悪します。
ネオバターロールのCMじゃないですけど、
「ウソはよくない」と思います。
なので、わたしは、
社会派映画という作品にも、嫌悪感を抱いてしまいます。
ショッキングな事件があると、
その数年後には、必ずと言っていいほど、
その事件をモチーフにした映画(作品)が公開されたりします。
この種の映画(作品)に対しても、
歳を重ねるにつれ、わたしは嫌悪感を強く持つようになりました。
現実に被害者がいて、被害者家族もいらっしゃる訳で、
にも拘わらず、事件の数年後に映画化(作品化)。
しかも、国内の映画賞なんかを獲ったりなんかして、
監督さん、俳優さん、制作陣がガッツポースする。
なんだか「もやもや」します。
でも、
提供する側と受容する側、
双方の権利も守られているなかで公開され、
ぼちぼち観客も入ることに対しては、
わたしは「どうぞ、ご自由に」と思うしかありません。
個人差はあれど、
太古の昔から人間は、
エロいモノや、グロいモノに興味を抱きます。
それらのモノを観たい(聴きたい)欲求があります。
てか、
エロいモノ、グロいモノを鑑賞しているときの、ひとの顔。
びっくりするほど、エロくて、グロい表情しています。
わたしは、そう感じてしまいます。
そして、とても怖いです。
<最近コレ、小腹空いたときに食べます>