アコークロー 昼でもなく夜でもない時間
アコークロー。沖縄の言葉です。
夕暮れ時、という言葉。
「明るい」と「暗い」をつないだ言葉です。
響きがとても好きです。
アコークロー。
とても趣のある時間なのですが、注意も必要なんです。
今日は私の体験した、不思議な次元のお話しをします。
注意が必要、と書きました。
注意、というのは「気をつける」「心構えを持ち直す」という意味合いで使っています。
というのは、アコークローは「命ある者」と「死せる者」が入れ替わるタイミングとも言われているからです。
この世の者と、そうでない者が混在する時間でもあるのです。
近ごろは、少しずつその感覚が自分にも備わってきたので、特段意識するでもなく、夕暮れ時は「入れ替わり時なんだな」と認識しながら過ごしています。
私は「見える人」ではありませんが「後から映像で教えてもらえる」センスがあります。
「その場で気づけない」タイムラグは“あちゃー”なのですが、あとから「あぁ、こんな場所に足を突っ込んでいたんだ」と知らされるのです。
目で見るというより、頭の右側頭部あたりに映し出されるという方がしっくりきます。
それでは、実体験を語っていきます。
離島にいる時に、夕日を見たくなりました。
どうせだったら高いところで沈みゆく太陽を見ようと、電動チャリを借りて集落から離れた展望台へ向かいました。
途中、お墓の前を通りました。
沖縄のお墓は大きいのです。いくつかあるとちょっとしたニュータウンです。街です、街。
離島なので、画像程の数はありませんがお墓の存在感は大きく、なんとなく一礼をして通り過ぎました。
展望台で夕日を眺め、帰路に着きます。
日が沈むと辺りは暗くなっていくので、集落へ向かう足も早まりました。
行きと同じくお墓の前を通り過ぎましたが、特に何かを見るでも聞くでもなく。
また一礼をしながら通り過ぎました。
その夜です。
眠ろうと後片付けをしていると、突如先程通ったお墓の映像が出てきます。
空の色からして夕暮れ時。
お墓の前では何人かの人が思い思いに過ごしていました。
子ども達が道で遊んでいたり、老人がのんびり座っていたり。ザルのようなものを抱えて歩く女性もいました。
今の生活というよりは、戦前といった風でしょうか。全てが古びて見えます。
人というよりは棒人間のような、黒い人影が動いている感じです。
その前を私が自転車でシャーーッと通り過ぎて行きました。
お互いに見えてないようで、何事もないのですが。
映像は続きます。
今度は日没後。
日が沈んだ後のお墓は静まり返り、先程いた人影は見当たりません。
そして、誰もいないお墓の前を私が再びシャーーッと通り過ぎていきました。
定点カメラを見ているようでした。
映像を見せられて、私は「アコークローってそういう時間帯なんだ」と理解しました。
生ける者と死せる者、どちらも存在する空間なのです。
日没後はどちらでもない、闇の時間。
もしかしたら「あやかし」が跋扈しているのかもしれません。
島ではアコークローになると「七つの子」という童謡が流れます。
日が暮れるのでお家に帰りましょう、と島の子どもたちにアナウンスで呼びかけているのですが、裏を返すと「もうあなた達の時間は終わるから帰りなさいね」というメッセージ。
実際に映像で見てしまうと経験値ができるのか、少し意識するだけで、違う次元が見えやすくなります。
夕暮れ時、人で賑わう島のメインストリートも映像で思い起こすと、ゆらゆら透けている人が同じように動き回っています。
今の所、私が識別できるのは「生ける者」は色があり透けていませんが、「死せる者」は人の形をした影で、風景がセピアがかっており、音も聞こえません。
動いていても、音がないのです。
「怖い」とか「見ちゃった」という気持ちは全く無く、いるんだなーという感覚です。
実は何度かは怖い目に遭っています。それはまたいずれお話しますね。
「死せる者」がわきまえている以上、「生ける者」もわきまえなきゃいけないんだ、と身をもって経験した出来事でした。
好奇心が強いので、やらかしてしまうことも度々あります。
友人のお祖母さんは村で神事を司る方でした。
お祖母さん曰く「16:30を過ぎたら海は見るな」。
海に行くな、ではなく見るな。
海辺に住む友人はなかなか難しいと言いながらも、その言いつけを守っています。
普段は夜も明るい街に住んでいて、あまり気にせずにいますが、離島にいると昼と夜の姿に落差があり眠っているセンスが起動するようです。
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それではまた。
お読みくださってありがとうございます。