あの頃の旅は危険だったか? マカピーな日々#0397
マカピーです。
マカピー三男はケンちゃんから聞いたその事件について知りませんでした。
海外で育った三男にはある日本人観があったと思います。
ニュースで見る外国での市民による抗議運動やそれを取り締まる警察や軍の間で生じる暴力の嵐の様子に反して、日本では政府への反対デモもしない「おとなしい」というイメージといったところでしょうか。
彼は、期せずしてコロナ禍の日本で就職し、日本語やその歴史についても再学習中ですが、高度成長期の日本の様子については殆ど知らないのでした。
奇跡の戦後復興とよばれた時代の中で、日米安保条約をめぐるデモ、全学連闘争、テルアビブ空港乱射事件、よど号ハイジャック事件、成田空港開港をめぐる三里塚闘争など流血事件が頻発していました。
特に、日本人3名がイスラエルの空港で銃を乱射して沢山の死者を出したこのテロ事件以降、空港の保安や荷物チェックが厳格化されたのでした。
そして、当時イスラエルのキブツ(集団農場)に行ったケンちゃんはマカピー三男に語っています。
ケ:「そりゃ当時旅行してたら、日本人と見ればすごい目で見られたもん。特にイスラエルは取り調べもメチャクチャ厳しかったしなあ」
三:「え?日本人が海外でテロ事件やったの?知らなかった」
ケ:「そや、1972年。オカモトって名前を聞いたことないか?」
三:「ハイジャックした人?」
ケ:「そりゃタケシで兄貴の方や、コウゾウはその下の三男」
三:「ボクも三男・・・」
ケ:「エ? マカピー・・・こいつおもろいなあ。将来楽しみや」
三:「ケンちゃんはイスラエルに行った時、何歳だったんですか?」
ケ:「学校卒業してすぐだったから、23歳だったかな。あの事件を起こす日本連合赤軍になる連中とほとんど同じやった。連中はパレスチナ側からは英雄視されたけどな、事前に射撃訓練受けても、空港で一般客にむかって銃を乱射するってほんまにビックリしたわ」
三:「ケンちゃん自身は、そういう活動しなかったの?」
ケ:「あんなあ、ボクは英語がろくにしゃべれん状態で旅行に出たんや。ああいうクレージーになれる連中とは頭の出来が全く違うんや!ボクそういう面倒な話より旅行が続けられれば良かったし、イデオロギーやなんや考える余裕もなかったしなあ」
三:「イスラエルのキブツからどこ行ったの?」
ケ:「キブツは働いていれば食べさせてくれるから世界中から若者が来て住み込んでたけど、金はたまらんのよ。それじゃあ旅が続けられないから、危険手当がつく仕事を紹介してもろうたんよ。まず最初は銅鉱山で機械に油をさす仕事やったけど坑内での作業はひどい環境だったから辞めて、次は港で働いたん」
三:「港湾労働者ってやつ?」
ケ:「そや、危険手当がつく割のいい仕事があってな、死海の塩を運搬してくるトラックの荷のカバーシートをはがす仕事なんだけどシートをめくってる最中に運悪く強風にあおられると、シートもろとも空中に投げ出されて怪我したり死んだりすることがあったんでいい給金貰えて、旅行資金を貯めたんよ」
三:「その後どこ行ったの?」
ケ:「アフリカや。その港にアフリカのエリトリアからくる船に沢山のヨーロッパの連中が乗って来たんで、聞いてみたら70ドルで行けるっちゅうからそれでアフリカに渡ったんよ。エリトリアって今は独立してるけど、当時はエチオピアの領土だったんよ。ハイレ・セラシエ皇帝の時代も終末期で、アジスアベバ行ったら街のあちこちでバリバリと銃撃戦があった頃だった」
三:「そんな歴史的が大きく変わる時に、旅行で来たってスゴイなあ」
ケ:「そう思うか?でも当時は確かに危険そうな国を通過したけど、紛争に巻き込まれんようにしながら歩き回ってただけなんよ。それにそんな旅する日本人も少ないから、現地の日本人会や大使館でも歓迎されたしな」
三:「今だたっら、大使館もケンちゃんみたいな若者に来てもらいたくないだろうね?」
ケ:「ホンマやなあ。危ないこともあったけど自分でもいいタイミングで旅行で来たと思うもん」
そんなふうにちゃんと三男に語ってくれるケンちゃんて、やっぱりすごい人だなあって思いました。
マカピーでした。
最後までお読みいただき感謝します。まさしく「歴史の目撃者」