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マカピーな日々 橋を渡れば(2) #0013

マカピーです。

ウズベキスタンという国で不思議な橋をみました。

天山山脈の西端にあるウズベキスタンはその山中からアルダリヤ川とシルダリア川が流れでてアラル海という大きな湖に流れ込むのですが、ソ連時代この地域での綿花栽培が盛んになると、灌漑用水路を張り巡らして世界でも3位くらいの綿花輸出大国になったのがウズベキスタンです。

首都タシケント周辺でも橋が架かっていてその下を流れがありますが、そのほとんどは人工的な灌漑用水路です。しかもその多くの水路建設に携わったのが第2次世界大戦で捕虜となった日本人捕虜でした。

シベリア抑留の話はよく聞きますが、ジュネーブ条約を無視して戦後日本の将兵を長期間使役に従事させ中央アジアのウズベキスタン、キルギスタン、タジキスタン、カザフスタンなど旧ソ連の共和国に連行されラーゲリと呼ばれる収容所から土木建築や炭鉱での使役に駆り出され冬季にはマイナス30℃にもなる極寒地で沢山の方が再び母国の土を踏むことなく亡くなっています。そうした日本人墓地が今でもタシケントの街の郊外にもあります。(元在ウズベキスタン日本大使だった中山恭子さんの著書「ウズベキスタンの桜」も参照ください)

すみません、橋からマカピーの話がそれてしまいました。

そもそも降水量の少ない乾燥地域で灌漑をして盛大に綿花栽培をしたらどうなるか?直ぐに弊害が出始めました。

塩害です。灌漑水が畑に流れ込んで作付けすると灼熱の太陽に照らされた地面から水分は蒸散する際に地中から塩分を引き上げて地表面を真っ白にしてしまいそこでは塩分濃度が高すぎて植物が育たなくなるのです。マカピーもその塩を舐めてみましたが食塩とは違い苦いような独特の味でした。地元では表土に溜まった塩分濃度の高い土をブルドーザーで畑の周囲に土手のように積み上げて、「新しい土」に灌漑して綿花を育てていました。そこまでして綿花生産をやめる事の出来ない国になっていたのです。

次にアラル海の枯渇です。アラル海はかつて豊かな漁獲高を誇っていた世界有数の湖で、海へ流れでる河口を持たない不思議な湖沼でした。ところが流入水が激減すると塩分濃度が増し魚は生きられなくなり、次第に岸が沖に引いて行ってしまい今世紀中に湖が完全に消えるとさえ言われています。この現象に拍車をかけたのがもう一つの隣接国トルクメニスタンでアムダリア川の水を首都アシカバードに運河で引いてカスピ海へ流すバイパス工事をやってしまったのです。こうしてアラル海にあった豊かな漁村は消え、打ち捨てられた漁船が残される不気味な景観が生まれました。更に綿花栽培では病害虫防除に沢山の農薬が使用されましたがそれが湖沼の土壌を汚染していました。冬になると強風に舞い上がるかつての湖沼の土壌は今度は周辺住民の頭上から降り注ぐことになったのです。

ウズベキスタンではノンと呼ばれる丸いパンが有名ですがプローフと呼ばれる「ピラフ」の原型のような米食もあります。マカピーはそこで暮らす前は米をどこで買ったらいいのか悩みましたが、地元のコメは種類も豊富でそしてとても美味なのでした。そうです。米作が盛んだったのは川の恵だったのです。

ある日出張でこのアムダリヤ川を渡ったことがありました。広大な川幅の河原が広がっていましたが、明らかに長らく川の流れが途絶えている様子がうかがえました。国道は一段と低くなっている場所に降りて行きました。そこには艀(はしけ)が幾艘も繋がれた上に車両が通行できる鉄板が敷かれた「橋」がありました。その艀の周囲にはかろうじて水があるのですが艀が水位の変化で傾いてしまうと、水平が保てなくなり車両が安全に走れなくなってしまいます。わずかに残った水たまりの中でポンプを持ったタグボートのような船が放水しながら艀の姿勢を補正していました。

おそらく巨大な橋を建設する技術も費用もなかった時代には、水の流れもあり艀橋が機能していたのでしょう。ところが渇水が常態化してしまった今日では艀舟の意味がなくなり、その場所から遠くない場所にコンクリートの大きな橋の建設が進行中でした。

マカピーがウズベキスタンを去って幾年も経ちました。もはやあのような艀橋を見る事はないでしょう。

(写真は珍しくウズベキスタンの画家による油絵小作品で、ウズベクの古い街並みの様子が分かります)

次回はカンボジアの橋をご紹介しますね。

マカピーでした。


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