「しょっぺーなし」な話 マカピーな日々#0321
マカピーです。
年明けにも帰省して母親の顔を見て来ようと思ったらコロナ禍がひどくなり更には変異型ウイルスまで拡大したので、あいもかわらずの電話だけの訪問が続いています。
マカピーは子どものころ「しょっぺーなし」と言われた事を思い出しました。
これって上州弁(群馬)で「しょうもない」事を指し、けっして「塩っぽい梨」だったりではありません。(苦笑)
そんな言葉が日常にある環境が郷里であると思ったら、思ったより共通語化が浸透していました。
たまに同窓会などで同級生と酒を飲みながら、気持ちよく昔話に花を咲かせていると、突然周囲から笑われたりするのです。
友1:「おいマカピーよ、今どきそんな言葉使うやつはいないやね」
友2:「久々に聞いたな。その上州弁は」
マ:「なんだよ、おれは久々に群馬に来てこうして話してるんだぜ」
友1:「だからマカピー、おめえの頭は昔のまんまってことなんさ」
マ:「ほうじゃあんめ(そうじゃないだろう)」
友2:「ホレ出たぞ、マカピーのほうじゃあんめ」
マ:「子どものころは皆言ってたじゃねっきゃ?(言っていただろう)」
友1:「もう職場でもおめえみてえな、上州弁をしゃべるやつあ、いねえやな」
友2:「たまに、じいちゃんばあちゃんと話すると出てくる程度かなあ」
マカピーはたびたび上州弁についてnoteで書いていますが、どうして自分は18歳で郷里を離れているのにも関わらず、郷里の言葉訛りに興味を持つのかいろいろ考えてみるのでした。
すると手塚治虫さんの遺作となった『グリンゴ』の一場面を思い出されるのです。
ある南米の村に行くと、そこは明治時代に日本から移民してきた人たちが当時のままの言葉や習慣を守って暮らしている社会を維持していたのに主人公が驚くのでした。
つまり、外の社会と交渉を持たずに孤立した社会では、独特の「文化習慣の純化」が行われ維持されるという現象をさしているのだとマカピーはビックコミックを見ながら考えました。
しかしよく考えると、似たような例は日本の雅楽や仏教なども大陸に起源を発していても、その本家本元が既に滅んでしまっているので日本に残っている芸術を見ながら往時の様子を研究することなどがあるかと思うのです。
不思議に思うのは郷里の友達と比べると、マカピーは郷里と物理的に離れて暮らしているのに、お国言葉から離れていないのです。
これはどうした事なのかな?
ニュース番組を見ていても群馬の事になると「おお?」と聞き耳を立てるので、マカピーの奥さんは「あなたは、郷土愛が強いのね」といいます。
確かに川崎の都会暮らしだった彼女にはそうした感情が薄いのかも知れません。
マカピーの長男は「お父さんとお母さんは、『田舎のネズミと町のネズミ』なんだね」と言って笑っていましたが、あながち間違っていない指摘と納得しました。
こんな話をつらつらと話していると、奥さんからは「ハイハイ、分かったからオチはどこなの?」
きっと郷里の母も「お前も、相変わらずしょっぺーなしだね」と呆れる事でしょう。ヤレヤレ
マカピーでした。
最後までお読みいただき感謝します。しょっぺーなしなマカピーの話は明日も続きます!