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毎朝六時には目を覚ますようにしている。ボタンを押し忘れたら大変だからだ。いつどんなきっかけでそれを押すようになったのかはまったく覚えていないけれど、ずっと前に母親に「一日一回必ず押しなさい。忘れないように朝起きたら真っ先にやりなさい」と言われたことだけは覚えている。それから押し忘れたことは一度もない。もともとぼくは忘れっぽくて大学入試も新卒の時の採用面接もすっぽかして次の日に思い出すような不便な頭をしているのだけれど、それでもなんとかなっている。あんなのは全然たいしたことじゃなかった。ただしあのボタンだけは別だ。あれを忘れてしまったらどうなるのか想像もつかない。「ここが宇宙の先端です」と言われそこから突き落とされるような得体の知れない恐怖感がある。当たり前に信じていたものが跡形もなく消え去ってしまうのかもしれない。それで一個とされていた身体がバラバラに崩れて人間も猫も魚も関係なくすべての生物が大量のおぞましい虫に変わって這い回りはじめるかもしれない。空がガラスのように割れて巨大な生物が向こうから顔を覗かせるかもしれない。もし仮にこのボタンに何の意味もなかったとしても、これを押し忘れたらもうぼくはそれまでと同じぼくではなくなる気がしている。だから今日はボタンを押さないでいる。