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チェス盤を挟んで伝説のチェスプレイヤーと向かい合っている。彼は無敗だった。信じられないことに、彼ははじめて打った時から一度として負けたことがないという話だ。ここ10年ほどぼくは何度も彼に挑戦し、そのたびに負けてきた。今日こそは彼に勝つのだ、とは実は考えていない。今回は彼の強さの秘密を暴くことだけを考えている。だから、相手を撹乱するつもりであえて定跡とははずれた手を何度も打った。しかし彼は涼しげな顔でそれに対処していく。こちらは負けじと常識はずれの手を繰り出していく。そうこうしている内にひとつ気になることを見つけた。彼は駒を盤から浮かせずにさすのだ。癖と言われればそれまでのことなのかもしれない。実際、自分でも何度も目にしてきたはずなのにさほど気にはしなかった。それでも試してみる価値はある。「ちょっとした気まぐれなんですがね、駒を動かす時、ちょいと持ち上げて直接盤の上に置いてみてくれないだろうか。ここまで負け続けると何にでも縋りたくなるんですよ。たとえ駒の動かし方をちょっと変えてもらうといったことでもね」。彼は嫌がったが、なぜそうしてはいけないのかということを観衆に納得させることができなかった。観衆は彼の味方ではなかった。歴史が変わるところを見たいのだ。「一度だけでいい」と言うと、彼は決心したように駒を持ち上げ、ゆっくりと盤面に下ろした。彼の手が離れると駒は自分で隣のマスまで歩いた。観衆からは彼の手に隠れて何も見えなかったようだ。ぼくは見なかったふりをして勝負を続けた。それを咎めたところで、伝説のチェスプレイヤーに勝ったとは言えないからだ。敵は目の前の彼ではなかったのだ。結局ぼくは負けた。そして彼はもう二度とチェスを打つことはなかった。