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なぜ「二十五、二十一」が1990年代が舞台の物語なのか少しだけ考えてみる

2022年2月から韓国で放送され、Netflixでも毎週配信が開始された
韓国ドラマ「二十五、二十一」の第1話と第2話を見ました。

冒頭、コロナ禍と思われる時代にマスクを付けてバレエの発表会に出る少女と母親のシーンから始まりつつ、その少女が家出して祖母に会いにいき、母親の日記を発見していく展開となります。物語はこの母親が高校生の時代1998年を舞台に描かれていきます。

この時点で、現代の少女、母親、祖母の3世代の女性の視点を持つドラマだということが分かりますが、舞台の中心となる1998年という時代について少しだけ考えてみたいと思います。

1990年代を舞台にした、みずみずしい少女の物語といえば、韓国で大ヒットした「はちどり」。女性監督のキム・ボラ氏による、家父長性の抑圧や息苦しさと少女の日常を、90年代という韓国でも大きな転換期となった時期を通しして描かれた物語です。あくまでその時代をティーンとして見つめる視点で描かれています。

この「二十五、二十一」でもその時代を高校生として過ごす視点は同じです。舞台が現代から1998年に移行するシーンについて、ノスタルジックな映像トーンで丁寧に、重ねて、重ねて、どのような時代だったか説明されていきます。国際金融基金(IMF)に韓国政府が緊急融資を申請したこと、不景気で大企業がいくつも倒産したことなどなど。
「IMF」はかなり重要な転換期で、劇中セリフの中で頻出しています。
「時代のせい」「時代が夢を奪う」といった主題のひとつらしきことも何度も発言されます。

1987年に民主化、1998年にソウルオリンピック、1992年に文民政権誕生で新自由主義の道が開き、国として大きな転換点を迎えながらも、そのひずみが生まれて大人たちが変化の痛みを背負ったりしている時代。日本も1964年のオリンピックがそうであったように、時代が熱気を帯びながら変化していく時代、かならずしも経済成長=豊かなことだけではなく、犠牲や軋轢を生みながら進むもの。今につながる転換期がそこにあった、ということを見せていくドラマなのではないかと思います。

ひとりひとりの市民の人生は国家や政治や経済に巻き込まれながら進むもので、同じ時代を生きても誰の視点で何をみるかで全く違う見え方があるもの。この金融危機で、国中から金(きん)のために指輪などの貴金属を市民から集めたというのは知りませんでした。

このドラマは、そんな1990年代を舞台としながらも、社会はまだ自分ごとにはなっていない、無垢で無謀でまっすぐな高校生の少女を中心に話が進んでいきます。

現代の少女が母親の日記を通してその時代にアクセスし、母の母(つまり現代の少女の祖母)との関係も描きながら、1998年の高校生だった「母」がオリンピックスポーツのフェンシングに取り組んでいく物語。ちなみに、怒鳴り散らすオモニはすでに登場しています。父親は死別しているという設定なので、家父長制は別の軸なのでしょうか。
 オモニという存在をどう描き、オモニに何を語らせ、オモニの何から脱却しようとするのか。3世代という構造を用いて、過去の何を否定して、どんな新しい時代を描くドラマなのか、未知数です。

オリンピックスポーツといえば、このドラマが「フェンシングスポーツの話」と知ったとき、去年の東京五輪でアーチェリーの金メダリスト アン・サン選手が、ショートカットという髪型がフェミニスト的であると嫌悪と批判の対象となったことを一番最初に思い出しました。ドラマの中で、フェンシング部のコーチはボブカットでさばけた性格として描かれているだけでまだ何もわかりません。今後このドラマはフェミニズムをどう扱っていくのか、女三世代の話という点でも見どころだと思います。ヒロインはNHKの朝ドラのような自由闊達で元気溌剌、ちょっとドジで素直で直球というキャラクターなので、全体のトーンは明るそうです。

これからの未来を語る際、韓国では1990年代と今はリアルな地続きになっていて、その地続きの呪いのようなものを断ち切ったりしたい、そんなことが垣間見えるドラマになるのかも...と期待が膨らんでいます。

これらの作品の作り手の方々は40代、まさにヒロインらと同じく、90年代を若者の立場で経験した人々なのです。どのように「時代が多くを奪っていく」という感覚と、その圧力を感じながらも自分の人生を歩む力強さを描いていくのでしょうか。


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