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47歳までに転職10回以上、大手上場企業で年収4000万円稼ぐまで!波乱万丈な20代(第一話)

・・・第一話:47歳までに転職10回以上!波乱万丈な人生を生き抜きました。(第一話)|真淵慶|note
・・・第二話:47歳までに転職10回以上、大手上場企業で年収4000万円稼ぐまで! 営業力開花への第一歩(第二話)|真淵慶|note
・・・第三話:47歳までに転職10回以上、大手上場企業で年収4000万円稼ぐまで!波乱万丈、営業に一番大切なモチベーション(第三話)|真淵慶|note
・・・第四話:47歳までに転職10回以上、大手上場企業で年収4000万円稼ぐまで!波乱万丈、最後の試練!(第四話)|真淵慶|note

大昔の話から始まります。
私は、日大法学部に入りながら、その時期、法律関係で将来働くことは全く考えておらず、大学に入ってからは毎日S・Sという彼女や友達と遊び惚けて、親分肌だったせいで気前よくバイトで稼いだお金の3倍ほど、当時はやった「学生ローン」で借りたり、カードを10枚くらい作って奢りまくり、働きながら返済しては借金を繰り返しました。働き先は、引っ越しのバイトや喫茶店・パブ・ホテル・洋食・和食などサービス業のバイトが中心でした。
卒業まじかになると「専門単位」は足りてるのに、1年の時に履修すべき体育や数学や古典などの単位が足りず留年となり、半年ほど留年したが馬鹿らしくて中退しました。

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バイトの一つに最初働いてた喫茶店の上階にあった小さな「デザイン事務所」もあり、コーヒーや軽食の出前ついでに社長さんや社員の方と仲良くなっていたので、結局、大学を辞めた後そこに就職することにしました。
今思えば、当時、給料は手取りで24万円から始まり辞める時には30万円も出してくれた社長には感謝してますが、その時はそれまでに積みあがった借金700万円が重たくて、パチンコや、その時の友人や社長の影響で競馬にも手を出していたので、ギャンブルで少しでも返済しようとしたが、お察しの通り藪蛇でした。
そこで、テレビでたまたま特集でやってた「若年層の借金過多急増」とかなんとかの番組で「債務整理」「自己破産」というキーワードが出てきたので、「そうだ!私は法学部だった、忘れてた、その手で行こう」と早速22歳の時でしたが東京霞が関にある東京弁護士会に電話してアポを取り、法律相談をしにすぐさま向かいました。
結局、担当してくれた弁護士さんのところで自己破産ではなく債務整理でやっていくことにし、とりあえず弁護士から「まず借りられるところから着手金借りて来てください」と言われたので、30万円ほどかき集めました。
届けに行くと弁護士から「もう債務者からは電話来ないから、月々合計いくらくらいなら返済できる?」と聞かれ、「10万円くらいですかね」と答え、債務整理が始まった。

しかしプライベートは、それまでの出会いや付き合いがあったので、浪費は抑えながらも苦しい生活でしたが、人脈は更に広がっており、芸能人やプロダクション社長、チャゲアスの編曲手がけてた方、インディバンドの面々、飲食店のオーナー、カメラマン、モデル、宗教、やくざまで、幅広い人脈が出来ていた。
なので、実を言うと、仕事の手伝いでは前出した他に、渋谷の焼き肉屋のマネージャーや、バンドのプロデューサー、住み込みでエロ本屋の店長、代打運転手など色々やった。(結構デザイン事務所の社長が、ちょくちょく休み取らせてくれたので)


有頂天だった若き日、渋谷や新宿で喧嘩を売られると喜んで買って出た。
記憶では負けるまで12戦無敗だった。

暴走族ややくざとも喧嘩した。

でも、かち割ったビール瓶持ったやくざ5人との時は、さすがに死を覚悟した。
池尻大橋にあった1階がラーメン屋で、女子プロレスのジャッキー佐藤とも会えたが、そこの地下にあるパブで私が友人と飲んでた時「ヤクザ風情が寂しく飲んでるな、奴らは下っ端だな、ちんぴらか」と私が酔って呟いた声がまる聞こえだったらしい。

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そのヤクザ屋さんたちは5人で飲んでいたのだが、私は、友人達3人に「眠らくなったから先帰る」と告げ、地下から階段を上がり、店から10メートルほど歩いたところで後ろから店を駆け上がってきた音と共に、さっき店にいた5人ど目があったので、すぐ横の路地に逃げ込んだが、5人のうち一人に落ちてたビール瓶を片手に襟を捕まれ捕まってしまった。次々その方たちが出揃い囲まれ、二人がビール瓶を振りかざす
「てめえ、なめてんのか!」
わたしは、思わず二人の腕を掴み、降り落とせない様に力には自信があったので、ふんばり堪えながら
「いやなめてないす、瓶で殴られたくないだけです」
「それがなめてるって事なんだよ!」
わたしは
『抑えた二人の腕を振り払って、路地の奥に逃げよう』
そう思い、後ろを向くや走り出した。
しかし、先の地面がない!
行き止まりの先は、崖だったのだ!
勢い余って3〜4メートル下に落ちたところで、奴ら5人が次々に降りてきた。
内心「1対5の金網デスマッチかよ」と呟きながら戦ったが、やはり無理だった。

あばらが折れ、足が折れ、ズタボロだった。

しかし、それでも冷静な自分がいた
『このままやられっぱなしだと、明日の新聞に載るなあ、助けを読んでみるか、誰か気づいてくれるかも知れない』

そう思い「助けてくれ!」私の声に気づいた店のママが裏路地に来てくれて助かった。

店のママに友達はまだいるのか聞くと、私が出た後みな帰ったそうだ。
そして、その場を去る時、やくざに連絡先を聞かれたので「後で金でも取られるのかな」と思いつつ、私もシャツは破け弁償して欲しいくらいだったので素直に教えてしまってた。

翌日早速連絡があり、「昨日は悪かったな、俺らもしろうと相手にやりすぎたから親分に怒られちゃてさ、お詫びしたいって親分が言ってるから、まあ、仲直りの印に付き合ってくれよ」と言われ、渋谷の待ち合わせ場所に行った。

会って目にしたその男は、腕を包帯で首からぶら下げ、松葉杖をついていた。
心の中で私は「おいおい、嘘も大概にしろよ、慰謝料でも取るつもりか?やられたのは俺だぞ」と呟いた。

後に、彼らは、警官への発砲で解散させられた池田会の面々だと知った。

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連れられていくままに、道玄坂を登り路地裏にいくと、どうやら組事務所の様だった。
友人に尾行を頼んでいたが、私を見失っていた。
「まあいいや、行ってみよ」
わたしは好奇心の方が勝っていた。


中に通されると、すれ違う組員に彼は「こいつ、新入りだから、結構度胸あるぜ」と紹介されながら奥に進んだ。

「おいおい、誰が舎弟だよ、やくざなんかやんねーよ」とやはり心の中で呟きながら、どんとソファーに座ってた親分の正面に座らされた。

「悪かったな、うちの若い連中が迷惑かけて」
「話によると、かなり度胸あるみたいじゃないか、これから先は、度胸があるインテリやくざじゃないとしのげないかな、君みたいな人材が欲しいよ、まあ、お詫びの印に店にも謝りにいかなきゃならないから、いこうか」

有無を言わさず、車の後部座席の親分の隣りに座らされ、池尻大橋の例の地下のスナックに向かった。

席に着くと、私もママにお礼を言い、親分の隣に座らされた。
近くで対面してよくよく見ると、親分の目力はハンパない。まさに極道映画のそれだった。

何回かご一緒させて頂いた白竜さんイメージに使ってごめんなさい。

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1時間ほど体裁良くお行儀良く一緒に世間話をしていたのだが、そろそろ組に入らないかの話に移ってきそうだったので、「なんとか理由つけて帰りたいな」の思いが高まり、思い切って「あの、親が昨日から心配してるんで、早めに帰らないと」と言い、付け足して、待ち合わせ場所から案内した人は電話番号知ってるので、近くに寄り「また連絡ください」と、立場をもたせてあげた。
まあ、それでなんとか切り抜けたが、心の中では「服の弁償しないのかよ」と怒鳴ってた。


まあ、昼とは違い夜はヤンチャだったのだ。

その後、揉めたやくざなんかと知り合いの、同系の組みの幹部の人が良く出入りしてるスナックのマスター(池尻大橋の駅の2階にあった「しゃろうぼう」と言う店で、たまにそのマスターと会うと奢ってもらいご一緒させて頂いた)が、同系の組幹部の方に頼んで、彼らとの事は丸く収めてもらい、二度と連絡が来ることはなかった。

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その時、店から掛けた電話での会話
「おお、俺だ、お前よ、俺がお世話になってる店の若い子怪我させたんだって?期間中だろ(執行猶予中と言う意味らしい)?こっちで治めたから二度と連絡なんかすんなよ」
電話を切ると
「にいちゃん、でもなんで怒らせちゃったんだ?」と聞かれたので素直に「奴らに、下っ端のちんびらと言ってしまいました」と言うと
「そりゃ、ちんぴらに"チンピラ"って言えば怒るわな」
がはははっと、その幹部の方は大笑いしてました。


まあ、そんなこんなで店のマスターには借りが出来たので、その後そのスナックで夜働きだしました。

でも、そのスナックでは更にやくざに対する免疫が鍛えられました。
ある夜、私が一人で店番をしてると、シャツが血まみれになったやくざが店に駆け込んできて、私がカウンターで呆気に囚われていると、「あいつ死んでないよな」「多分ビール瓶で頭かち割ったけど無事だと思う」そんな会話が聞こえてきたり、、、。
これ以上は辞めておこう。

でも、また店に来る違うやくざ屋さんには、使いやらされたり、運転手させられたりしたけど、その度に10万円もらった嬉しい思い出もあった。

ある日、スナックに飲みに来ていた常連のプロダクションのA社長から「うちの泉あきのマネージャーやってくれないか」との誘い。
アウディも用意してくれると言う。
私は「それもいいかな」と二つ返事したが、翌日、彼女に「マネージャーやったら別れる」と言われ、すぐさま断った記憶もあります。

しかし、そのS・Sという彼女とも、大学時代4年間結婚まで考えて付き合っていたが、卒業を機に、私は留年したので次第に離れていき、自分にとっては本当に辛い別れでしばらくひきずる失恋であった。

なので、仕事の取引先や休日のバイト先などで好意を寄せてくれてる女性にも気が付かないほど引きずっていたし、女性と付き合う気になれなかつた時期でもあったが、行きつけだった246号沿いの三宿にあったパブに寂しさ紛らす為に通う日々がその後始まった。

とは言え、今までのように気前よく奢るようなことは債務整理もあり出来なくなったので、後輩を連れてさえも割り勘にした。

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しかし、そんな時期でも夜は渋谷にあった居酒屋で働き出した。人のいいおかみさんが広い店内を仕切ってて前借までさせてもらってたし、そこでは厨房で韓国人も働いていたが、週に4日朝方4時まで働いていた。

週末などは仕事が終わると同僚が2~3人、私の狭い民家の1階を間借りした下宿先に遊びに来て昼まで飲み明かした。
この私の下宿先には、同僚だけでなく夜中寝ていると渋谷で飲んでいた友人が女を連れて「電車がなくなった」と突然来ることも多々あった。
ベットで寝てる横で、こたつの上に買って来た酒やつまみを広げ話し始めてるのだ。
まあ、いつもカギを開けてる俺もあほなんだろうけど。

また、一人の時には、三宿のパブに飲みに行って、若手の自衛隊のアホな連中と騒いで寂しさを紛らしていたし。

それから数か月、昼夜働くことで、収入が増えたので、車を買い三宿の246沿いにあったアパートに引っ越すことにした。

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初めて買った車は、カリーナクーペの中古でした。


そこは今までの下宿と違い大家さんが2階に住んでないので騒げると言う事もあって、友人たちと六本木で飲み歩いた後、再びみんなのたまり場になった。
いつのまにか飲んでると知らない奴も増えていて、一回寝込み泥棒にあったことがある。
六本木で「俺、友達とはぐれちゃったから、一緒につるんでもいい?」と言って来た奴を友人ら4人と共にアパートに招待しマージャンをやったのだが、自分は眠気が極度で先に寝てしまい、朝起きると財布が盗まれていたのだ!そいつも消えていたのだ!すぐさま警察を呼び、指紋などとったりして、そうさが始まった。しかし担当の方からは「このような事件では泣き寝入りがほとんどなので、何かわかったら連絡します」と悲しい答え。
友人に聞くと、皆マージャンの途中で寝てしまったようで、仕事に向かったり帰ったりして、六本木で拾ったやつの名前も電話番号も知らなかった(なんとも私自身が間抜け)。

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そんな苦い思い出の6畳一間に2畳のキッチンがついて月5万円、駐車場45000円のアパートを去り、今度は車で通える川崎宮前区のアパートを借り移り住んだ。


しかし、それでも友人は何人も訪れてきた。

この頃になると、都心から離れたせいもあって、誘いも少なくなり、まだ支払いが続く借金返済の為に夜時間が取れる様になった。
そこで「夜も目一杯やれば月々10万でなく20万返せるぞ」単純にそう思った私は駅前のミニストップで夜中に週4日働く事にした。
昼はデザート事務所に10時から20時で、夜中は22時から朝の8時迄のキツイローテだったが、1年頑張った。

しかし、転んでもただでは起きない俺。
そのミニストップでは学生バイトが殆どだった中、一人26歳。
当然、兄貴みたいな存在になり、彼らをある日知り合いが経営する六本木のカラオケに7人くらいだったかな?連れていき、そこは奢った。
今なら未成年の女の子もいたから(何もしなかったけど)非難されたかも。
そんな感じで昼夜のハードワークの逆境を転換できるタイプだったのかも。
しかし、眠くて昼間うとうとしてる自分に思うところがあったようで、さすがの太っ腹のデザイン事務所の社長でも「仏の顔も三度まで」で、怒られる事が多くなった。

ちょうどその頃、友人の紹介で彼と同じ会社のOLで、彼と彼女とその子の4人で飲みに行った後、付き合う事になった。実に4年ぶりだった。

そのY・Aさんと付き合い始めると、やっと大学時代の彼女の事を忘れ始めた。しかし、デザイン事務所の仕事でエロ関係の写真集や単行本や冊子も手掛けてて、たまたま家に持ち帰ってたそれらを目にした彼女に「もう、今の仕事やめて」と言われ、私自身も今後のことを真剣に考え出したが、そのまま時は過ぎた。

その後、初めてスキー用品を揃えた私は、彼女や友人に連れられてスキーに泊まりがけで行ったり、奥多摩のキャンプ場のロッジで寝袋で寝たり、生まれて初めて、まともな人生を歩み出した気がした。

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しばらくは幸せな時間が流れた時期であった。しかし、結婚ともなると、やはり先立つ金もないし自信がなかった。


数年経ち、彼女も29歳になった。
結婚を急いでる。
結婚式場のパンフレットも持ってくる。

弱みを見せられないもどかしさ。

焦った俺は電話での勧誘の「これからはパソコンの時代です、先駆けて使えるようになれば好条件の転職や自営でも役立ちます」と言う電話口の女性の話に乗り、外で会い話を聞き、当時200万円以上するモノクロというかワントーンのファックス内蔵のオールイン型MAC=PC(Windows98よりずっと以前)を即決してしまった。

これに上部ファクスが内蔵されたフロッピーdiscのオールイン型Mac PC

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それを彼女に話すと酷く怒って「結婚式はどうするの!」と、私は「いや、君の希望通り今のデザイン事務所辞めるために、もっと稼ぐ為に買ったんだよ、もうちょっとだけ待ってくれ」と言うのが精一杯だった。


しかし、はぐらかし続ける私に、彼女がある日引導を渡した。
「もう別れて」
私は目の前が真っ暗になった。何も言えなかった。

でも翌日電話して、「別れる前に絵を一緒に描きたかった、広い野原に座って絵を描きたかった」と伝えた。
実は、私は小学校から中学までいつも展覧会に選出されるはど絵画は好きだった。

しばらくすると彼女から電話がきて
「これ程まで、好きでいてくれた人いなかったから、もう一度やりなおそ」との返事だった。
嬉しくて仕方なかった。

しかし、3ヶ月後
やはり金がなく結婚に踏み切れない私にあいそを尽かし別れる事になった。

そんな時、後輩から「先輩、自分やってる営業の仕事は稼げますよ」と、突然の電話。
別れたし、東京にも川崎に住んでる意味ないなと思い、後輩のいる千葉に引っ越して、その営業の仕事やらにチャレンジする事にした。

(第一話終わり)
次回、更に波瀾万丈な世界が繰り広がります。乞うご期待!
良ければ下記のHPも見どころ満載なので、よろしくお願いします!

・・・第一話:47歳までに転職10回以上!波乱万丈な人生を生き抜きました。(第一話)|真淵慶|note
・・・第二話:47歳までに転職10回以上、大手上場企業で年収4000万円稼ぐまで! 営業力開花への第一歩(第二話)|真淵慶|note
・・・第三話:47歳までに転職10回以上、大手上場企業で年収4000万円稼ぐまで!波乱万丈、営業に一番大切なモチベーション(第三話)|真淵慶|note

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