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人と人と人と人と
GhostSな人たち
ケアの弾性ー偶然性と死活の契機ー(西川勝)11|GhostS|note(ノート)https://note.mu/carebros2017/n/n59f580422233
この事柄を、理解される立場から考えてみると、その限界が明らかになる。自分のことを他人がどう理解しているのか。相手の一方的な思い込みで誤解されることもあれば、こちらの思いがほとんど伝わらずに悔しい気持ちになることもある。自分が本当に理解されたという経験はごく稀にしか起きない。だから、人と人の関係は、理解からはじめるのではなく理解不可能性から出発して、理解できなくても人と人がともにいることの方法を考えたほうがいい。
西川勝さんのお話の中でも一番好きなお話です
私は哲学を学んだ事もないし
学生時代の成績はいつでもどこでも〝まんなか〟
だから
GhostSの方々の中でちょっと難しいな…と
思う投稿は
何度も何度も読み返しています
読む度に違う感慨があったり発見があったり
しみじみと〝頭悪いな~私〟と思う事もあるし
西川勝さんのお話には愛情がある
ふと足をとめて
あたたかい目で心でみつめてきた事を
書かれている気がします
私などが西川勝さんのお話の感想や分析など
おこがましいんだけれど
この気持ちを共有できる人が
一人でも増えると嬉しいなと思います
私の母が認知症になってから入院していた病院で
身体の小さい小さいおばあちゃんがいて
母といつも同じテーブルで食事をしていました
そのおばあちゃんは言葉がはっきりせず
ほぼ何を言っているのかわからない
食事も小さい子どもが食べるように
とっちらかして食べる感じ
母は母でそのおばあちゃんに母性を感じて
〝見て…坊やが今日はとってもよく食べてるの〟
とか勘違いのまま
アレコレ世話をやこうとしたりしていました
母が話しかけるとおばあちゃんは何かしら発する
でも全く理解できない
でも母はそれに答えて何かしらまた声をかける
私はその光景を見て
全く理解しあえていない二人が
実は世界で一番この瞬間わかりあっている気がして
ずっと黙って見ていました
何より母が
それはそれは優しい表情をしていて
こんな顔をして私を育てていたんだな…と思うと
とても口を挟む気持ちにはなれませんでした
これでいいんだな…って思いました
とんちんかんな会話を責めたり笑ったり
坊やじゃなくておばあちゃんなんだとか
そんな筋の通った話より
母が気持ちよくその場にいる
その事の方が大事なんだなって
そう思いました
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