言葉に居着かないで、更新し続けるということ。
私は昔から、思った言葉をポンとすぐ出せるタイプの人間ではなくて、自分のなかで何度も反芻して、自分の思いに本当にぴったりくる、もしくは、これくらいなら言葉に出しても大丈夫、と思ったことしか発言できなかった。
クイックレスポンスには程遠く、そんな自分のコミュ力が嫌になったりした。(よく考えればそれはコミュ力でもなんでもないんだけど)
今も、自分の発言について慎重に考えてしまうところは変わってない。
言ったもん勝ちな空気があったとしても、それにどうしても乗れない。
だけど、ライターとして仕事をしていると、それでよかったなと思うこともある。
インタビューで人の言葉をまとめるときにも、一つひとつの言葉の意味を考えて、受け手に間違って伝わらないかとか、インタビュイー(取材対象者)がこの表現で納得するか、喜んでくれるかとか、いちいち考えることが苦ではない。その人の本当に言いたいことを、言いたかったであろう言葉で表現することもある。
そのときに感じるのは、その人の身体からにじみ出た言葉であるかどうかで、受け手の印象は全然違うということ。
この前読んだ内田樹さんの本に、こんなことが書いてあった。
それは太宰治が、原稿用紙に書いた小説の文章をそのまま編集者に渡すのではなく、一度自分で全部記憶して、声に出すことで伝えていたというエピソード。声に出すときに、もとの原稿とは少し変容しながら小説になっていったという話だった。
つまり、言葉として作ったものと、実際に伝えようとしたときとでは、表現が変わってくるということ。
その先を長めに引用。
最終的に文学作品のリーダビリティを担保しているのはその作家の身体性です。作家の生身を通過して語られているものなのか、その辺にある言葉をのりとはさみでつぎはぎしてこしらえたものなのか、その違いが読者にはわかります。時代がうつれば、頭の中身は変わります。価値観も美意識も「政治的正しさ」の基準も変わる。でも、身体はそう簡単には変わらない。だから、身体を通して語られる言葉は、時代を超えて読者の身体にしみ入る。
「からだを通して語られる言葉は、受け手のからだに入っていく。」
これはいつも実感としては感じていたけど、こうして言葉にしてもらえると、すごく勇気をもらえるというか。
偉人の名言も、アスリートのかっこいい言葉も、使われていくうちにすぐうすっぺらくなる(=陳腐化する)し、バックグラウンドがない人が同じことを言っても深みは感じない。
陳腐化のスピードが年々早くなる中でも、常に自分の言葉を探し、反芻し、更新し続ける。
その習慣が昔からあることは、強みと言えるんじゃないかと、今は思う。
内田樹さんの著作によく出てくるのが「居着く」という言葉。武道の言葉で、一度とった姿勢から動きが止まり、相手の出方をうかがうしかなくなる受け身の状態。
こうなると「隙」が出てしまったり、何にしても後手に回ってしまう。
つまり「変に落ち着いてしまう」みたいなことかなと思う。そのままでいると、だんだんと価値が薄れて、力を失ってしまうということ。
だから、その言葉に「居着かない」ように、言葉を更新すること。
多少時間がかかったり、普段外に出すことは少なくても、常に反芻して考え続けていれば、いざ言葉を発する場面におかれた時に、アップデートしたてのピカピカの言葉になって、深く受け手に伝わる。
私はそういう言葉のパワーを信じているんだなーと、ふと。
今回はスポーツとは関係ない記事を書いてみました。
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