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自己表現

私はこういうのが好き。
こんなことを日々考えている。
こんな価値観を持っている。

そんなことを表現することには、何の価値もない。
誰も私のそんなことには興味ないでしょう?
私には誰かに認めてもらえるようなものは何もない。
人のためにならないことには価値がない。

ずっとそう思い込んでいた。



「それで自分が満たされるなら、自分にとって大きな価値があるじゃないか」

誰かに評価されなくたっていいんだ。
素通りされていい。
ただ、外に向けて自己を開示すること。
その行為が心地良い。

そこでもし、たったひとりでも共感してくれる人がいたならば、心地良さのなかに喜びが生まれる。


そういうことを、ずっとしたかったんだって最近気付いた。

それを、私は何で表現する?

絵画で?音楽で?ダンスで?ファッションで?

文章で?






私は幼い頃から、自己表現が苦手だった。
「自由にしていいよ」が苦手だった。

幼稚園児の頃、母の用事を待ちながら飲みかけの紙パックジュースのパッケージを模写した。
ミックスフルーツジュース。
パッケージにはバナナや桃、オレンジにりんご等が描かれていたのを覚えている。
我ながら、上手に描けて大満足だった。

でもその絵では、母を喜ばせることはできなかった。

母は、「静かに待っていたこと」をよく褒めた。
静かにずっと、椅子に座って待っていたことを。

私は、静かに落書き帳を閉じ、自分のリュックに仕舞った。


年子の姉はクリエイティブな人間だった。
小学校でも、姉の生み出す独創的な作品の数々を評価されていた。
作文も、図工の作品も。
更にはピアノも上手だったし、背も高く、足も速い。
それらを母は大袈裟に喜んだ。
度々もらってくる表彰状は、リビングの壁に飾られていく。
市のこども作品展に姉の作品が飾られれば、家族揃って見に行った。
音楽会ではピアノで伴奏をし、運動会ではリレーの選手。

そんな姉を、純粋にすごいと思っていた。
姉の生み出す作品が私も好きだったし、姉の上手なピアノを聴くのも好きだった。
リレーのアンカーを走る姉を心から応援した。

私は姉のことが羨ましかったんじゃない。
妬んでなどいなかった。

ただ、そんな姉を母が、父が、親戚中が、喜び褒め称えるところを見ているのが辛かった。


「私には、なんにも無い。」


そんな現実を突きつけられ、自分には誰かに評価されるようなものは持ち合わせていないのだと悟った。



…だけどね、
最近になって。

見たままを、捉えて感じて思考する。
それを言語化する。

私のそれを、強みだと教えてくれた人がいた。

私自身も、それが強みだと子育てをしていて感じていたときだった。


見たままを、捉える。

あのときの、それと似ている。

見たままを、描き写す。
紙パックジュースを模写したときのように。

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