金王八幡宮例大祭奉納舞台終演
金王八幡宮例大祭、奉納舞台が終わりました。
2023年の奉納も多くの方に観ていただきました。
毎年楽しみにして観に来てくださっている方もいて、パントマイムの奉納舞台もだいぶ浸透してきたようです。嬉しい。
観に来てくださった方、応援してくださった方、どうもありがとうございました。
(TSさんがブログで奉納舞台の写真を紹介してくださっています。ありがとうございます!)
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今年の金王八幡宮の奉納舞台の振り返りと、作品創作で気づいたことなどを、つらつらと書いていきます。
最初のMCの時点から境内にお神輿が入ってきて、だいぶ賑やかなスタートになりました。
お客さんがパフォーマンスに集中して見てもらえるかが不安でしたが、しっかり見てくれた方も多くありがたかったです。
一部は神楽殿下でソロのまあさパントマイムパフォーマンス。
例年披露しているパフォーマンスなので、毎年観に来てくださっている方には申し訳ない気がしました。
来年は趣向を変えてやっていきたいと思います。
奉納舞台では、毎年奉納用の新作を披露しています。
今年は愛をテーマにした作品「最愛の人の他者性」を作り、二部で披露しました。
共演者はダンサーの森澤碧音さんです。
森澤さんは、愛をテーマにした「希う」というソロダンスも披露してもらいました。
彼女の演舞は昔から好きで、マイム演技と舞踊ができる尊敬する身体表現者です。
今回も奉納舞台に声をかけて一緒に作品をつくっていきました。
愛についてたくさん語り、振り返り、表現に挑戦していきました。どうもありがとう。
「最愛の人の他者性」ですが、これは平野啓一郎さんの小説「本心」のテーマなんです。
本心から着想を得て、演舞作品として創作しました。
私が本心を読み終えたとき、大きな問いが生まれました。それは
「最愛の人の他者性も含めて、人を愛することができるのか?」
という問いでした。
愛については過去の経験から懐疑的な見え方になりがちでしたが、この機会にちゃんと向き合ってみたいと思い作品づくりに取りかかりました。
分人の観点からも、人には複数の顔があるといわれています。
私は一つという「個人」の概念より、私は複数の環境や人によって顔を使い分けているという「分人」の考え方がしっくりきています。
最愛の人の他者性とは、つまり私が愛する分人とそれ以外の分人を認めることだともいえます。
「私といるときのあなた」とは違う「私といないときのあなた」が存在する、または「私が認めたくないあなたがいる」ということです。
愛する人にも当然さまざまな顔があります。
そんなこと思考でわかっていたとしても、結局私が愛する人というのは「私が愛したいあなた」の分人に限定しているのかもしれません。
「私が愛したいあなた」とは、
ある意味で私にとって都合の良い「あなた」を相手に見出していて
愛する人を勝手につくりあげているともいえます。
それを愛するといえるのだろうか。
私にとって愛とは「受け入れる」「許す」という概念が、もっともしっくりきています。
愛を表現する在り方として「受け入れる」「許す」のが私にとって、もっとも大きな愛情表現といえそうです(今の年齢ではですが)。
もちろん他にも愛と同義の要素は多くあるといえますが、愛という能動的な行動に受容的な態度があるというのが、なんとも自分らしいとも思います。
しかし!!!
やはり、どんなに愛している人であっても、受け入れづらいことや許せないことはあるのではないでしょうか?
私にはあります。
そこで、試されているような感覚さえありました。
「え、愛してるんでしょ?」と私の中のワタシが囁くように笑。
相手の受け入れ難い他者性を受け入れるように努力をしたり、許そうと試みても、それはそれで自分がどんどん苦しくなっていくし、しんどいし、愛すること自体がわからなくなっていく。
過去にこうした積み重ねから酷く疲れて、体調を壊したこともありました。
それは当時の私が信じていた愛を信じられなくなったから、ともいえます。
小説「本心」には、このようなことが書かれていました。
この言葉と出逢ったとき、私は救われた気がしたんですね。
誠実に相手の他者性と向き合う在り方が愛だったのかもしれないと。
受け入れる、許すといった完了形ではなく、人としての誠実さに愛が宿るならば、もう十分に愛していたといえるのではないかって思えるようになったんです。
本心を読んで、そして本心から着想を得た作品創作から、
自分を信じることができるようになりました。
そして過去に酷く疲れた私に伝えてあげるように、今回の奉納作品として昇華させました。
人を愛するには、さまざまな力が必要だと思います。
自身の孤独や寂しさを埋めるために愛の取引をするのではなく、
愛することで力がみなぎってくるような愛があると思っています。
実際にそうした体験は何度もありました。
しかし、最愛の人の他者性と実際に向き合ったときには葛藤することは多いでしょう。
そこで自身が十分に満たされていないと愛することもシンドイはずです。
そこで私が注目したのは「自愛」です。
自愛とは、自分を「満たす」「労る」といった解釈をしていますが、
人を愛するとは同時に「自分も愛する」ことが必要だと、
私の体験やさまざまな愛についての文献を読んでわかりました。
大切なのは最愛の人でもありますが
周り巡って、私自身も大切なんです。
私が私を大切に扱えていなければ、他者を同じように愛することは難しい。
だから自愛と合わせて、
最愛の人の他者性も愛することができると今回は結論づけてみました。
愛、自愛、最愛の人の他者性、分人、といった平野啓一郎文学から大きく着想を得た今回の創作と演舞。
とても良い経験になりました。
観に来てくださったお客さんから感想をいただきましたが大変好評でした。
今回の創作は本当にしんどかったのですが、感想を聞いて大きな喜びに変わりました。
肩の荷がおりました。しばらくゆっくりします。
一部 まあさソロパントマイム
二部 希う(森澤碧音ソロダンス)
最愛の人の他者性(まあさ×森澤碧音)