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金王八幡宮例大祭2024 奉納舞台を振り返る

金王八幡宮例大祭奉納舞台、今年も無事に芸能奉納として納めて参りました。
パントマイムの時間を1時間いただき、大道芸のパフォーマンスと神楽殿で作品を披露させていただきました。演目は次の通り。
・大道芸上演:かばん、綱引き
・奉納舞台作品上演:「ショーウィンドウ(3部作)」「願い」

「ショーウィンドウ」(3部作)
出演:まあさ、小金なるみ、佐藤雪絵、なつき
演出サポート:ぺんぺん
作・演出:まあさ

「願い」
作・演出・出演:まあさ

https://twitter.com/maasaTw/status/1836007995081417192

予定を空けて見に来てくださった方や、毎年この舞台を楽しみにしてくださった方、たまたま通りかかって観てくださった方。
どうもありがとうございました。

長文ですが、2024年のパントマイムの奉納舞台を、創作プロセスから振り返り、記録しました。

奉納作品の出発点

奉納舞台に出演するようになってから7年。毎年新作の演目をつくり、舞台で披露をさせていただく。
この舞台は、特別な思いを持って取り組んでいる。
芸能奉納という形で私のパフォーマンスを納めることで、毎年一年の表現活動の集大成として位置づけ、舞台に立っている。

今年の創作の出発点は「記憶」

奉納舞台の創作は、毎回チャレンジの連続だ。
創作は苦手意識があるのだけど、この機会を通して少しずつ苦手意識を克服できている。

今年の奉納作品は何にしようかと考えたときに、神社が持っている「場の力」を感じられるような演目ができないかと想像した。
神社から想起するパフォーマンスが、作品として力を持つ気がしたから。

私たちは神社に行くと御祭神に向かって手を合わせて祈る。願掛けをする。
そうした人たちの営みが、私には「マイム」に見える。

参拝する姿、行為自体が非言語的で、言葉以上のなにかを私たちに訴えかけてくる気がする。
祈る姿は数十秒の動かないし、定型の所作や、自分の内の声と向き合いながら、さまざまな想いを持って人は神社へ行くのだ。

お参りは日常的な行為でありながら、非日常な時間でもある。
お参りをして祈るという一連の行為は、未来と過去が交錯しているともいえる。

過去と未来。そして、今の選択。
私の関心は、過去と未来の関係性について変わっていった。

未来は常に過去を変えている

平野啓一郎さんの長編小説「マチネの終わりに」という作品がある。

「未来が、過去を変えていく」
これは作品の全編を貫く大きなテーマだと平野啓一郎氏は語っていた。

長い小説を読み終えて、私は難解なテーマではあったが、このような解釈をした。

過去という事実は、変えられない。
しかし、未来の出来事によって過去の解釈は変えることができるのは、私たちは何となく知っている。
いつか起きた辛かった出来事は、時が経てば、あれはあれで必要だったと思うようになり、当時の頃の記憶よりも美化されることがある。

未来志向の私には、こうした考え方はぴったりとハマる。
「未来が過去を変えていく」という考え方は、辛い過去に引っ張られてしまう人には希望が持てるものかもしれないという平野啓一郎さんの意見に共感した。

過去の解釈が少しずつ変わっていく体験は、多くの人が共感するのではないかと思った。
マイムとして非言語の身体表現の作品として、こうしたテーマを形にしてみたいと思った。

また、私が向き合うことが難しかった過去についても、
未来が過去を変えられる、という希望を持って進めていくことにした。

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?

「マチネの終わりに」の一節より引用

ワークショップ参加者との創作

例年の奉納舞台では、友人のダンサー森澤碧音さんとともに作品を作ることが多かったのだけど、今年はスケジュールが合わず、さてどうしようかと悩んだ。
新しいアプローチで、舞台と創作について向き合ってみたのだけど、今回は出演者を募集する形で奉納作品をつくることにした。

とはいっても、パントマイムの舞台に出たいという人は多くはないので、参加してくれる人がいるのか心配だった。

告知は、Xやウェブメディアで広くやってみたが苦戦。そうした中でも、3人の参加者が集まってくれた。

それぞれ演技経験や、マイム経験の差はあったけれど、この奉納舞台に期待を持って参加してくれて嬉しかった。

「奉納舞台に魅力を感じた」「マイムの身体を使う演技を学びたい」「ただ楽しみたい」「まあさと共演したい」など、参加した動機はさまざまあり、意気込みを強く感じた。

今回のワークショップは、舞台本番の出演を目的にするだけでなく、奉納舞台の出演を通して、自身がどのような変化や気付きがあったのかを言語化するところを最終ゴールとした。

今回のワークショップは、旅をするような感覚に近い。
旅で立ち寄る場所は決まっているものの、想定外で起きることをその都度どう感じたのか、旅の充実度を計るものになるだろう。

やったことは、マイムの基礎トレーニング、パントマイムの無対象表現のテクニックレクチャー、作品創作、作品稽古、奉納舞台の出演。そして、舞台出演後に一連のプロセスを振り返るオープンダイアローグを行った。

約4ヶ月間、多くのインプットとアウトプットがあり、参加者もいろいろと大変だったと思う。本当におつかれさまでした。

ワークショップの手応え

参加者の振り返りで聴いた話や、舞台を観たお客さんの感想を聴くと、今回のプロジェクトは手応えがあった。

参加した3人は、見事に奉納舞台を演じきってくれた。
マネキンとヒトを行き来するような役で、身体を使う表現として難しかったと思う。しかも、お面を付けて舞台に立つことで視界が狭まり、動きや演技で不安なことも多かったはず。
いろいろと模索した結果、あの表現方法になったわけだが、表現の質を上げたうえで創作を進めることは、今回の企画でこだわっていた点だ。
そこに食らいついてきてくれたのは、本当に立派だったと思う。

舞台では、3人の身体的な特徴が発揮されていた。マイム的な身体の使い方をしていたので良かったと思う。
約12回の基礎トレーニングと作品稽古で、お客さんにはマイム初心者の舞台には見えなかったという感想が聞けたのは、しっかりと体現できたことを表していた。

マイム表現は、簡単ではない

マイムを「ジェスチャー」と混同して、簡単な動きと思っている方が一定数いるのだけど、声を大にして言いたい。
「マイムは、ジャスチャーじゃないよ」と。

マイムは身体の表層で見せる表現ではなく、内面の心理表現が軸になっているため、身体を使った演劇と私はよく言っている。心理が伴った身体の使い方を専門とする表現だ。エンタメ性と芸術性、両面のアプローチができるのも魅力といえる。

例えば、多くの人が思い浮かべるパントマイムの「壁」。
見えないモノを空間に作り出して、あるように見せることができるのはエンタメ性が強い表現手法だ。そこに壁があると見せながらも、どんな心理状態かをしっかり表現するのがマイムなのだ。

狭い空間で歩き続けるパントマイムを淡々と表現すれば、旅や人生などを想起する人がいるかもしれない。
言葉がない世界だからこそ、見る人の想像力を刺激して、見る人が観たい想像の世界を作り出すことができる。
心理が伴った歩き方であれば、より想像力を持って見ることができるだろう。
芸術性がある表現や伝え方ができるのは、マイムのおもしろいところでもあり、難しい点だ。

マイムは型化した表現でもあるため、型を多く練習することで伝わる表現として習得できる。演者の成功体験が、比較的早い段階で得られるのがメリットとしてあるかもしれない。

ただ、それだけの表現ではない。
教わった人によって、マイム表現の差が大きく生まれることがあり、マイム表現の可能性を信じるマイムアーティストとして、葛藤しながらこの難しい表現にずっと向き合っている。

今回の奉納舞台の創作プロセスでは、そうしたことを体験として伝えられたかもしれない。(参加者にとっては、いろいろ迷わせたり、戸惑ったことがあったかもしれないから、ごめんなさいだけど)

マネキンパフォーマンス中

演劇体験で得られることを考察する

今回の奉納舞台は、演劇体験で得られることはなんだろう?という問いを持ち続ける旅でもあった。

演劇教育の観点から、演劇体験の一連の流れで気づくことを参加者に聴いたり、私の気づきがあったらメモを取るようにした。

そこで思ったのは、やはり舞台に立つことは簡単ではないということだった。

準備してきたことや、繰り返し練習した成果を人前で披露するには、さまざまな負荷に打ち勝たなければならない。
できる・できないの技量のプレッシャー、本番までにできるのだろうかという精神的プレッシャーなど個人で背負うことのほかに、チームで作り上げていくプレッシャーもある。

さまざまな負担がありつつも、本番までにはなんとか乗り越えていく。いや、乗り越えていないかもしれないけど、なんとかしていくものが舞台だ。

どうして人は舞台で力強く立つことができるのか?
舞台に立つ人の自信は、どこから生まれてくるのか?

その仕組みがわかれば、演劇を社会が知ろうと耳を傾けてくれるのではないかと思う。
私が今回の奉納舞台を通して見えてきた問いの解は、次のとおりだ。

  • 演劇をつくるプロセスは「自分を信じる練習」になる

  • 演劇をつくる仲間(他者)との関わり合いから、自分を信じる力が育まれていく

ひとつずつ掘り下げていこう。

奉納舞台当日の最終リハ

演劇をつくるプロセスは自分を信じる練習

演劇をつくるプロセスのなかで、自分を信じていく(信じ込ませる)ポイントは、いくつかある。
個別な事情で人それぞれ違いはあるけれど、自分を信じてものごとを進めていくのは共通しているのではないかと思う。

演劇をよく知らない人もこのnoteを読んでいるかもしれないので、演劇がどのようなプロセスで作られていくかを、下記にまとめてみたので参考にしていただきたい。

<演劇の舞台(出演側)をつくるプロセス(一部)>
配役オーディション
出演決定・顔合わせ
本読み
2立ち稽古
3動きをつけるなどの演出が入る稽古
4一部シーンの返し稽古
5全体の通し稽古(衣装付き、小道具ありなど)
6テクニカルを想定した返し稽古
7テクニカルを想定した部分稽古
小屋入り
8場当たり稽古
9ゲネプロ

舞台本番

太字で記載してあるのは「稽古」と呼ばれているもので、上演作品の出来具合によって、さまざまな種類の稽古に変わっていくのが特徴でもある。

最初は、座って脚本をみんなで読み、立って稽古を進めていきながら、セリフを確認しながら少しずつ台本を持たずに稽古をする。脚本の内容が頭に入ってきて、段取りもわかってきたら、部分的なシーンの返し稽古といわれている集中稽古を行う。
後半は、小道具を使ったり衣装を着たり、音響や照明を想定した稽古を行って本番までに調整をしていく流れだ。

ただ、上演の規模によって稽古の内容や回数は変動する。
集まった出演者の経験の差にも左右されるが、プロが集まれば稽古数は減っていく傾向があり、制作予算や出演者のスケジュール合わせの関係で稽古時間が取れないこともよくある。しっかり時間をかけて作り込んで舞台に立つというのは、生産性や効率性の観点で、プロではあまりないのかもしれない。

今回の私の奉納舞台はマイムの演目だったため、上記のプロセスにある、本読みやテクニカル(照明)を想定した稽古は行っていない。また、現地入りした後の場当たり稽古や、ゲネプロもできなかったので、結構なハードな舞台だったと思う。

さて、演劇体験の中で自分を信じるポイントはどのあたりで発生するのか考察してみよう。
私のイメージでは、1〜9の流れでは後半。特に、劇場入りする前後は、自分を信じて突き進んでいく感覚がある。
舞台の本番が迫ってくるほど信じる強度は増すか、または揺らぐというべきか。

稽古の序盤にあたる1〜3は反復練習をして、身体で覚えることが多い段階。作品がつくられていく中で手応えをつかみつつ、理想の形を見つけてトライしては修正をして直すという段階だ。

4の返し稽古の段階になると、できた内容をより良くする稽古に変わっていく。この段階は負荷が高くなるので、精神的に揺らぐ時期でもある。自分を信じて進めていくだろうし、演出や仲間と対話をしながら向き合うことになる。

今回の奉納舞台でもそうだった。
私の作るスタイルは創作をしながら稽古を進めていくので、3と4を行ったり来たりしていた形だ。それが良い悪いではなく、そうしたプロセスを経てようやく5にたどり着いた。

(つづく)

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