3月20日の日比谷線にて
一つ前の投稿で
村上春樹の『街とその不確かな街』を読んで以来
村上熱再来中と書いた
また読みたいなあ と思った小説だけでなく
これまで読んだことのない
エッセイやノンフィクションも読み始めた
そして いま初めて
『アンダーグラウンド』を読んでいるが
改めて思うことがある
銀河には 宇宙には 地球には 日本には
歴史がある 当たり前だ
ニンゲンが 時間を可視化し
スクロールできるようにしたんだから
その概念に従えば
歴史上 "これまでに" 世界(便宜上の総称)では
様々な出来事が “あった"
スクロールできる時間で言う過去や歴史だが
限定的(≠永久的)にしか存在できない僕は
その一部としか “出来事" を共有できない
しかも命は限られていて
残念ながら
総てを識ることはできない
この社会にニンゲンとして生きていて
その葛藤と闘いながらも
ニンゲンとして生きていくこと
(つまり他の動物にはない類の社会性と優しさを存分に発揮したい)
を やっと覚悟しつつある今
(しつつじゃねえよ! グダグダすんな! 早よしろ!)
せめて
自分が "生きてきた"・"生きている" "時間" に
"起きた" こと
そして その "時間" を
共有している人たちに起きた出来事くらい
しっかりと考えたいと思った
そう考えると
浅はかではあるが
僕が生まれて今日に至るまでに起きた
多くのニンゲンに広く社会的な影響を与え
広く認識され 様々な感情や意見を交わせたり
(はたまた できなかったり)する
比較的わかりやすく大きな事件・出来事は以下4つだ
・阪神・淡路大震災
・地下鉄サリン事件(及びオウム真理教関連の事件)
・東日本大震災(及び福島第一原子力発電所事故)
・新型コロナウイルス感染症の流行
※あくまでも正直に 個人的に印象深いものだけを 絞りに絞りました
地下鉄サリン事件が起きた時
僕はまだ小学生で東京にも住んでいなかった
大変な事件ということはわかったけど
それはテレビの中の他人事だった
そして当時の世の中の暗い雰囲気は
子どもながらに感じていて
そんな雰囲気の日本の中心では
別にこんなことがあっても当然だと感じた
そんな "テレビニュース" とは関係なく
地方に住む市井の人びとの暮らしはつづく
どうせ1999年に世界は滅びるかもしれないし
・・・と 件の大予言さえ半ば本気で信じていた
そんな投げやりな空気があった
そして 事件発生前から
テレビが垂れ流す オウム真理教関連の様々な情報は
子どもたちにとっては ハッキリとエンタメだった
もちろん 人の命が犠牲になった事件についてのことではない
バラエティに出る教団トップや
討論番組にでる教団幹部
出馬して奇抜なパフォーマンスをする教団員たち
流行語を生み出したスポークスマン
このような映像だ
皆がハッキリとバカにしていたし それが許されていた
友だちとは 教団のつくった歌を歌ったし 笑ったし
大人たちもそう ああいえば上祐を言ったことのない人なんて当時いたのかと思うくらい
とにかく 彼らは すごくわかりやすくて
語弊はあるかもしれないが
とてもキャッチーで便利だった
社会に漂う終末感と
ニンゲンの不健康な欲を満たすエンタメ
そんな僕らにとって生活に実害がなく
(あくまでも当時の田舎に住むバカで無知な僕らの当時の感覚で言うところの無害)
嘲笑の的でしかなかった彼らが
あんな暗い事件に関わっていた
演出過多な当事の報道は
この一連のオウム関連の出来事
そこに至るまでのストーリーを
ホラーやミリテリー映画よろしくVTRにまとめ
僕たちの恐怖心を煽りに煽った
それが僕に妙なカタルシスを与えなかったと言えば嘘になる
"まるで" 僕らがしっぺ返しを食らったような
いじめっ子が いじめられっ子に復習されたような
しかも 僕はそれを第三者の目で眺めただけなのだ
被害者でも加害者でもない立場で
元々社会から感じとっていた暗い雰囲気
地方からそれを傍観するだけの 無力で無能な子どもだった僕は
なんとなくだが これを機に
社会を さらにニヒリスティックな目で
見るようになっていった気さえする
そして "時間は流れ" 僕は忘れた
社会に出て大人と呼ばれるようになり東京で働き
大概の他人は性善説で信頼し
(何度財布を失くしても戻ってくる社会だもの)
ホームドアのない駅のホームの先頭で電車を待っていても
まさか 後ろから誰かに突き落とされるなんて考えもしない
当たり前のように地下鉄に乗り 安心し切っている
日比谷線にも丸ノ内線にも乗る
今回『アンダーグラウンド』を読んで
そういえば まさにこの場所で
これは起きたんだなと 初めて思った
テレビで見たサスペンスドラマ風のVTRではない
僕の網膜が結び 僕が見る世界
過剰に恐怖心を煽るBGMもない
ただの日常
便利な東京の地下鉄
ありがたい 感謝しかない
このサービスのおかげで仕事ができている
生活ができている
1995年の3月20日にここで地下鉄を利用した
多くの人にとってもそうだっただろう
この本は村上春樹がこの事件の被害者へ行ったインタビューを中心に構成されている
一つひとつのインタビューをゆっくり読んでいて
まだ読み終わってはいない
それに加えて
オウム真理教関連のことを調べずにはいられず
最近は多くの時間をそれに費やしている
全く信仰と無関係な人たちを突然襲った
あまりに理不尽で卑怯な暴力
なぜ? と思う気持ちを
どうしても放置できない
真実にたどり着くのが不可能なのはわかる
それでも
それを考えることが必要だと思った
あらゆる可能性を考えること
それはストーリーを紡ぐことだし
それをせずにして
他人に優しくなんてなれるだろうか
例えばフィクションの中で語られることは
現実ではたまたま起きなかった全ての可能性だし
だからこそ
僕らは現実と物語 両方から学ばなけれはならない
何かを信仰することは もちろん悪いことではない
人を傷つけなければ自由だし
個の人生を 心を豊かにするだろう
僕だって
いつか何かを信じたいと思うかもしれない
ニンゲンとして
その思いに共感できる材料は多分にある
多くの信者たちは きっと
純粋な気持ちで入団したんだろう
人を傷つけたり殺す可能性なんて
これっぽっちも考えてなかったはず
だったら
彼らが信じたあの人 自分の手を汚さずに彼らに人を殺させたあの人 あの人の信じていたこと
それと
実際に自分たちの手を汚してしまった 彼らの信じていたこと
それらは一致するのか
あの人の云っていることだから 理由もわからないし
自ら進んでしたいことでもないし なんなら毒ガスなんてつくりたくもないし ましてや人も殺したくないけど それでも実行する
あの人が本当に考えていたこと と 彼らの思いは
本当に一致していたのか
どこまで納得していたのか
これについて
僕は考えを巡らせないわけにはいかない
もしあの人が
ただ 肥大化した自尊心を保つため・私欲を満たすためだけに
自分を信じる信者たちをコントロールし
その純粋な気持ちを利用し 裏切り
無関係な人たちを殺害させたのであれば
こんなに空しい信仰があるだろうか
ひとつの可能性として
そういう物語があり得るということ
フィクションであれ ノンフィクションであれ
それを考えないわけにはいかない
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