【映画評】 湯浅典子『宇田川町で待っててよ』 BL、男の娘は神様の贈り物
(見出し画像:湯浅典子『宇田川町で待っててよ』)
湯浅典子監督作品を見るのははじめてである。
自主映画『あの、ヒマワリを探しに』25分(2014)で福岡インディペンデント映画祭2014年40分ムービー部門グランプリを受賞しているという。
湯浅典子『宇田川町で待っててよ』(2015)
が商業映画デビューとなる。秀良子の同名コミックの実写化である。
女装男子・八代に一目惚れする高校生・百瀬を演じるのは黒羽麻璃央。女装男子・八代を演じるのは横田龍儀。ともにジュノン・スーパーボーイ・コンテストで注目され、すでに舞台やテレビで活躍しているという。
わたしはBL作品を見ることはあまりない。演劇は複数形、映画は単数形。わたしは演劇、映画を勝手にそう決めつけている。どういうことなのかというと、演劇は気のおけない仲間と見ることで俳優の生身の身体を共感(共同体感という複数形)するものであり、映画は闇の中でフレームと対峙する孤独な作業であるという認識があるからである。BL作品を見ることはあまりないのは、そのことに起因する。つまり、BLに対峙する精神、BLを対象化する意識を内部に留保することができないからである。それよりも、社会がBLをどのように共有するのかの方に興味があるからである。そんな理由からか、観客席を見渡すとBL作品を鑑賞する“男/女”の様相の差に興味が向いてしまった。わたし(男である)を含め、観客としての男は単独に対し、女はペアが多い。もちろん、女のペアがレズビアンというわけではない。レズビアンはトランスジェンダーという意味でBLと共有するものがあるのだが、彼女たちが物語としてのBLに興味があるのか、それともトランスジェンダーの視点として興味があるのかは尋ねてみるわけにもいかず知りようがない。観客に、どっちに興味があるの、と尋ねてみたい気もする。物語としてのトランスジェンダーとリアルとは違うだろうから、その辺りのことも尋ねてみたいけれど…。
BLである男はどうなのだろう。物語としてのBLは見るのだろうか、そしてペアで見に来るのだろうか。わたしは物語としてのBLには興味があるが、身体も精神も、実生活上でのBLへのベクトルは持っていない。物語をひたすら消費するのみである。
さて映画なのだが、冒頭の、渋谷の街を彷徨う定まらない視線。生きていることに実感のない百瀬の視線なのだが、突然、ハチ公前に佇む赤いワンピース姿の女の子が目にとまり、一瞬にして恋に落ちてしまう一目惚れ。ところが、体の線の様子から女装男子で、実は女装したクラスメイトの八代だった。見てはいけないものを見てしまったと気が落ち込む百瀬なのだが、なぜか八代のことが頭から離れない。戸惑いながらも、家でも学校でも女装の八代のことを考えてしまう。ソファーに寝転び八代のことを考えていると勃起しズボンの股間は膨らんでいる。姉貴から「立ってる、きもい!」などとからかわれる始末。冒頭10分ほどのシーンですでにBLコミック感全開である。と書けば面白い映画には違いないのだが、事実はそうでもない。コミックそのものならすっかりコマの書き割りの中に入ってしまうわたしなのだが、実写版『宇田川町で待っててよ』のフレームにはわたしをはねつけるものがある。コミックと実写版には、超えがたい何かがあるのだ。それは、複数のコマを自由に横断できるコミックと、単一のフレーム内を一方的に流れる時間を引き受けるしかない実写版の違いといえる。これはコミックの実写版が必然的に纏わなければならない宿命なのだが、監督の湯浅典子がそのことに自覚的であったか否かは分からない。だが、すべてはフレーム内の百瀬と八代の往還で終わり、見るわたしへと時間は流れてこない。わたしに見る力がないのかもしれないのだが、残念ながら物語という時間に入っていくことができなかった。わたしとはどこかで波長が合わないのだ。
『宇田川町で待っててよ』の後に、バーナード・シェイキー(ニール・ヤング)『ヒューマン・ハイウェイ』(1982)も見ようと思っていたのだが、フレームの外に置き去りになったわたしは、その気をすっかりなくしてしまい、そそくさと家路につくのだった。
ユリイカ2015年9月号の特集は『男の娘』。漫画家ふみふみこと『宇田川町で待っててよ』の原作者・秀良子との対談が面白い。秀良子の言葉をいくつか拾ってみた。
「かわいいということばは闇です」
「女装で大事なのは顎です。顎が細いと女性に見える」
「体温があるんですよね、女装や女装子はことば自体に体温をもってしまっている」
「男性の方がコミカルさと明るさがありますよね。女性の方はどちらかというと陰と陽の陰なので」
男の娘は「神様のつくった綺麗な自然の風景を見ているような気持ちになりますよね。性別を超えた生きものというか」
男の娘ということばは「表面的なもの以外なにも含まれていない表層的なもんというイメージなのかもしれません。ドアくらいのものであって、それが開いた先にこれから行く先があるんでしょうね」
男の娘ということば自体「相対的な概念がまだできていない気がします」
男の娘は神様の贈り物なのかもしれない。
上記批評は映画『宇田川町で待っててよ』を見てわたしはどう思ったのかということであり、ジェンダー批判ではありません。日本政府のジェンダーに関する認識と法案、そして性教育の後進性を恥ずべきものと嘆く一人です。
湯浅典子『宇田川町で待っててよ』予告編
(日曜映画感想家:衣川正和 🌱kinugawa)