【音楽評】 渋谷慶一郎+岡田利規『THE END』(初音ミク・オペラ)
渋谷慶一郎+岡田利規の初音ミク・オペラ『THE END』
日本では2012年12月、山口情報芸術センター(YCAM)で初演、そして2013年5月、渋谷オーチャードホールで上演。わたしはYCAM初演時点では『THE END』の存在を知らず見る機会を逃してしまたったのだが、渋谷での上演は見逃してはなるまいと、オーチャードホールのオンラインチケットの会員になった。ところが新幹線往復交通費と宿泊費、それにチケット代を考えると、3万円は超えそうである。一週間絶食してでも行きたいとも考えたのだが、もうそんなことに耐えられる年齢ではないし、どうすればいいのか。そんなわたしは、ネットでのチケット購入画面を見つめながら、マウスを握る右手の人差し指はクリック〈する⇄しない〉と往復思考しながら静かに痙攣した。わたしの意思はどうだったのかは分からないのだが、人差し指はクリック〈する〉ことはなかった。上演終了後、3万円なら絶食などしなくても、その後の生活費を切り詰めれば何とかなる金額ではないかと、悔やむことしきりのバカなわたしなのであった。
そんなことで悔やんでいたら、《2013年11月12日、パリ・シャトレ座》で公演という朗報が入ってきた。いま、〝朗報〟などと思わず呟いてしまったのだが、これが本当の朗報なのかどうかも判然としないまま、わたしのどこかで〝朗報〟と囁き、指は何かに取り憑かれたかのように〝rouhou〟のキーを握りしめたのである。いったいどうしたのだ!わたしは。パリ公演観劇だなんて、オーチャードホール以上に経済的ハードルは高いことは自明だというのに、ここでもわたしの心は振動し、シャトレ座のチケット予約画面を覗いては、「自制せよ!自制せよ!」と観劇を夢想する日々が続いたのである。いやいや、このチャンスを逃すな!満を持して、というか思い切って、「パリに行け!」などと考えた。ところが、逸る気持ちとは反対にマウスを握る右手の人差し指はどうしたことか、ピク、ピク、とわずかに痙攣したのみで、瀕死の状態だったのである。なんたる残酷な結末であろうかであろうか。パリは遠く遥か彼方にあるのだと、諦念するわたしがきっといたのである。つまり、日本での再演を期待しようと、再び断念したのである。オーチャードホールの二の舞は二度と踏むまいと、北海道であろうと沖縄であろうと、国内ならばどこにだって飛んで行こうと思っているのである。
で、果たせなかったパリ公演観劇。せめて現地の新聞記事でも集めて、架空の観劇を紙面で果たしてみたいと思った。つまり、ヴァーチャル・ルポルタージュをしよう思ったのである。
その前に、YCAM初演時とオーチャードホールでの案内文に資料的価値がるので、部分的に転載しておこう。
それでは、ここからはパリ公演のヴァーチャル・ルポルタージュである。新聞資料を元に、わたしなりの〈初音ミク・オペラ〉を考えてみたい。
まずは、チケットは完売し、追加公演があり、3日間の公演が行われたという。複数の日刊紙に記事が掲載され、パリでの高い関心度が伺える。わたしの手元にはル・モンド、リベラシオン、ル・ポワン、そして不明の一紙の記事があ流。最も興味深いのは、公演の4日前に発行されたリベラシオンである。フランスに行くとリベラシオンを読む機会があるのだが、さすがアートには定評があるリベラシオン!『THE END』について深く掘り下げている。渋谷慶一郎の東京事務所の情景から始まるので、オーチャードホール公演と彼とのインタビューを元に記事を書たのだろう。
興味深い論点は2点あった。一つ目はマンガやアニメといった日本特有の文化の延長線上での初音ミクについての記述。二つ目としては日本人の死生観である。
まず後者について、リベラシオンを参考に考えてみよう。日本人の死生観を端的に述べれば《Suis-je mort ou juste endormi ?》「わたしは死んでいるの? それとも眠っているに過ぎないの?」ということである。これがインタビューでの渋谷慶一郎の発言なのか、それとも『THE END』での初音ミクの台詞なのかは、オペラ未見であるわたしには断定できないのだが、おそらく初音ミクの台詞である可能性が大きい。
《Suis-je mort ou juste endormi ?》の意味するところは何か。このオペラは「死とは何か」「終わりとは何か」という古典的なテーマを、初音ミクを通して現代に読み替える作業を行うのだが、このことを通して、作品の主題でもある〝死〟の決定不可能性へと導かれる。わたしたちは自己の死を意識できるのだろうか。死を意識できるのは他者でしかないのではないか。わたしたちが生きるとは、生と死のあわいを漂流する存在に過ぎないのはないか。そしてその〝死〟は、決定不可能という曖昧さを纏っている。
欧米では生と死は切断されているのだが(一部のキリスト教異端は別として)、日本ではそうではない。物質的な死はあるけれど、物質から離れた、それは欧米の概念である精神とは異なる死の知覚なのかもしれない。いや、そんな知覚すらあるのだろうか。それが日本人の死生観である。渋谷慶一郎は2008年、モデルでありアーティストでもある妻maria(30歳)を亡くし、その翌年、ピアノソロ・アルバム『ATAK015 for maria』をリリースしている。『THE END』は彼の自伝的オペラではないのだけれど、妻の死と彼の死生観を色濃く反映している。「このオペラは妻の死とわたしの哲学に誘発されている」。リベラシオンは彼の発言をこう引用している。そして、「彼女の死はわたしの心の中にある」と。つまり、妻の死とは彼女の中にあるのではなく、他者である彼の中にある、ということなのだろう。死は他者のみが意識できいるのである。決定不可能な死を前提にした人間は、いったいどこに向かって行こうとするのだろうか。
前後するが、一つ目の初音ミクについての論述だが、マンガやアニメとの関連で初音ミクについて述べるのは、初音ミクについてはほぼ未知の存在であるフランス人を読者とするのだから当然である。それだけならば他の記事とさして変わらないのだが、渋谷慶一郎にとっての初音ミクとは何かを論じている。彼は、初音ミクを、ミク・ファンと同時的に受容したわけではないとはっきりと他のメディアで言い切っている。「(初音ミクについては)フランス人の認知度とわたしとはあまり違わない」と。「ミクを初めて見たとき、fantômeを目にしたような気がした」と述べている。インタビューでのfantômeに該当する日本語が何であるか分からないけれど、fantômeとは「幽霊、(実体のない)幻の存在」である。「ミクの声にはとても面白いと思ったが、甘さは感じなかったし、ロマンティックであるとか躍動的であるとかは全くなかった。彼女はつまるところ日本女性なのであり、浮世絵を思わせるものに近い」と述べている。つまり江戸時代の代表ともいえる〝浮き世の世界〟の版画(半画)であり再現なのである。「〝カワイイ〟を基本単位として表すことの多い現代日本文化の世界において、彼の視点は驚くべきであり、説得力のあることである」とリベラシオンは述べている。
初音ミクとは、中世日本絵画から江戸期を経由して継承されたスーパーフラットという不在の身体なのであり、欧米的な身体構造とは繋がらない、切断されたものとして現代にある。フランスは、日本の現代アートを、かくも端的に肯定的に捉えているのである。日本の新聞各紙がYCAM初演においても、オーチャードホールでの公演においても、ほとんど興味を示さなかったのと対照的である。たとえ報道したとしても、ジャパニーズ・クール、つまり自立した芸術文化としてではなく、日本初の経済文化としての初音ミクに過ぎないのである。
《Suis-je mort ou juste endormi ? 》の〈死 mort〉を、〈在 été(être)〉へと思考を伸ばしてみる。
《Suis-je ou juste étés ? 》「わたしは存在してるの? それとも在るに過ぎないの?」。経験値から外れた異和のようなものを目の前にしたとき、わたしはそんな思いが湧いてくる。ここでétésと複数形にした。文法的には、主語jeが単数形だから、動詞êtreの過去分詞の形容詞化としてのétéは単数形でなければならない。それをあえて複数形にしたのは、わたしという肉体は単数なのだが、〝在る〟というわたしは複数であると思うからである。わたしは複数のレイヤーとしてあったり、『THE END』で見られるように劣化したコピーとしてあったりと……。つまり、わたしの〝存在〟の決定不可能性ということである。時間の連続した存在としてわたしはあるのか、それとも時間は幾層にも織り込まれた襞としてあり、その襞という存在としてわたしはあるのか。その選択の違いが見解の相違のように思えるのである。初音ミクは新たな襞を生み出し、襞と襞とが新たな襞を生み出す。そんな風に思うのだった。
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)
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