【映画評】 ダミアン・マニヴェル『イサドラの子どもたち』 3つの喪失と再生の物語
コンテンポラリー・ダンスに興味のある者なら、イサドラ・ダンカン(1877〜1927)の名を知らない者はいないだろう。彼女はモダンダンスの始祖として知られ、20世紀初頭を代表するサンフランシスコ生まれのダンサーである。幼い頃から古典舞踊を学んでいたが、その慣習的な舞に限界を感じ、自由なダンスを求め、1899年、ヨーロッパに渡った。1900年にパリでデビューし、その後、身体表現の形態そのものを変革し、ダンスに革新をもたらすことになった。順風満帆のイサドラだったが、1913年4月、二人の子どもディアドリーとパトリックを事故で亡くし、その苦しみから、亡き子に捧げるソロダンス「母」を作り上げた。だがイサドラ自身も、1927年、ニース近郊で首に巻いたスカーフが自動車のタイヤに巻き込まれ転倒。事故死することになった。
ダミアン・マニヴェル『イサドラの子どもたち』(2019)
本作はイサドラが残した舞踊譜「母」との邂逅から生まれた3つの喪失と再生の物語であり、連続する3部から構成される。
1)舞踊譜「母」を手にし、試行する若き振付師アガト。
2)「母」の公演に向け練習をする若いダンサーのマノンと振付師マリカ。
3)ダンスを観劇する老齢のエルザ。
1)振付師アガトが図書館で手にとるイサドラの「母」の舞踊譜は美しい。舞踊譜は時系列で描かれているのだろうか、各シーンには数字が記されており、それが進行する時間を示しているのだろうか。それとも、順序を示すだけの進行数字なのかもしれない。舞踊譜にはダンサーの位置や身体の形態などが記号化されている。その記号の意味するものを知らないわたしには、それはグラフィック記号であり、チャンスオペレーションの図形楽譜か抽象美術作品のようにも見えた。だが、どのような意味作用を発したとしても、それは純粋に美しい。そしていまひとつ美しいは、アガトのアトリエの窓から眺める子供たちの遊びの情景。地面に寝転ぶ、起き上がる、追いかける、人に触れる、飛び上がる…。それは子どもたちの自由な遊戯であり、遊びを超えてダンスのようにも思えた。イサドラが著作で述べているように、「わたしがダンスを発見したのではない。太古からダンスはあった」のだと。「それを見出すにすぎない」のだと。子供たちの踊りは、ダンサーによる鍛錬と知識による事後的なダンスではなく、生まれながら身体に備えられた、イサドラが述べる「すでにある」ダンスの表象ということなのだろう。アガトはその情景を、階上の窓から愛おしむかのように見つめる。アガトの子供たちを見つめる愛の眼は美であり「母」の眼差しのようでもあった。
アガトはイサドラの著作、「母」の舞踊譜、そしてスクリャービンのピアノ曲「エチュードOp.2-1」を手掛かり自らのダンス「母」を見出そうとする。アトリエの大きな鏡の前で「母」の踊りと向き合うアガト。カメラはその姿を背後から捉える。映画が描き出すのは子供に触れ、子供を抱くアガトの手の試論、カメラはそれらを楚々と思惟なく描く。
アガトには恋人がいるようだ。それは寝室、ベッド後方から捉えた眠る4つの足裏のショット。そして、ダンスアトリエの、カメラが右にパンしたときに現れる男の横顔のクローズアップ。アガトは未来の母なのだろうか。
2)若いダンサーのマノン、振付師のマリカ。二人の対話と試行。マリカは手本を見せることはない。基本はダンサーと振付師との対話から生まれる。マノンが舞踊譜「母」から何を読み取り身体に落とし込むのか。その疑問をマリカは言葉で問い質し、マノンは答えを身体により可視化しようとする。自分の身体に物語の確かな存在を感じること。そして物語に深く入り込むこと。彼女らの対話自体が「エチュード」でもある。彼女たち二人はノルマンディー地方だろうか、わたしの見た覚えのある植生の海岸に行く。海岸での二人の戯れ。それは憩いの時間なのだが、母と子のダンスにも見え、映画を見るわたしは、二人の遊戯をただ見つめていたいと思う。二人は砂地に腰掛け、振付師のマリカが語り始める。息子と娘の話。息子はベルギーで勉強し、娘は英国に住んでいると。フランスでのひとりの生活は寂しいけれど、つまらなくはないと吐露する。マリカは「母」に、自分のもとを去った不在の子どもたちの物語を読み取ろうとしているだろうか。不在の子どもたちは、「母」の作者イサドラ・ダンカンの事故死した二人の子どもと呼応する。ダンス公演は初日を迎える。
公演が終了し、カメラは客席を捉える。
右から緩やかに左にパンし、ひとりの女性の観客をフィックスで捉える。観客の名はエルザ。
3)観劇したエルザは帰路に着く。杖をつき、足取りは重い様子。バスに乗車し、そして下車する。
エルザのアパルトマンの部屋。ノートに記されたイサドラの言葉を読み、部屋着に着替える。棚には少年の写真が飾ってあり、エルザはその前でお香を炊く。そして窓に近づき、街灯の明かりを遮ろうとカーテンに手を掛け、手を見つめる。それはかつて子どもを抱いた手。手とともに不自由なエルザの身体は不意に舞い始める。エルザの足取りと同じく、微塵とも動かないように思えるエルザの身体の、ゆっくりとした市井の「母」の手の舞が始まるのだ。エルザがダンスを「見出した」瞬間である。
3つの物語を捉えた本作。そこには思惟から解き放たれたダミアン・マニヴェルの繊細な眼があった。
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)
ダミアン・マニヴェル『イサドラの子どもたち』予告編