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【映画評】 山本英『あの日、この日、その日』 在と不在
(見出し画像:山本英『あの日、この日、その日』)
山本英、冨永昌敬、竹内里紗、宮崎大祐、清原惟『MADE IN YAMATO』(2021)
YAMATOから生まれた5つのストーリー。
豊かな自然も特徴的な街並みもない、日本のどこにでもある街YAMATO、五人の監督たちはそこに何を見たのか?あるいは見なかったのか?当たり前の人々の暮らしが風景につけた小さな滲みが、今、世界に向けて広がりだす。神奈川県大和市。新幹線が走り東名高速が通り厚木基地に離着陸するジェット機が低空飛行する、どこにでもなく、どこにでもつながっている街。そんな大和の地で、大和出身の5人の監督が5つの物語を作り上げた。
山本英『あの日、この日、その日』
冨永昌敬『四つ目の眼』
竹内里紗『まき絵の冒険』
宮崎大祐『エリちゃんとクミちゃんの長く平凡な一日』
清原惟『三月の光』
大和市という都市の何気ない日常に虚構を紛れ込ませることで、都市の纏う時間を異化させる。均質化された都市ではなく、多数者による都市への視線、たとえば山本英の市役所、冨永昌敬の喫茶店、竹内里紗のスポーツセンター、宮崎大祐の恐竜のいる店、清原惟の新幹線を呈示することで、どこにでもあるYAMATO、そしてどこにでも繋がるYAMATOの再構築を試みた。
ここでは
山本英『あの日、この日、その日』
について概稿したい。
市役所で働くユキさんは退職する太田さんのために職員たちのビデオレターを撮る。ある日の休日、ユキさんは友人の山崎さんとピクニックに出かける。本作はなんでもないけれど特別な日を見つめる物語である。
大和市という都市の日常に虚構を紛れ込ませることで、都市の纏う時間をふたつの変奏として異化させる。
《前奏・主題》
「太田さんとはじめて会ったのは何年前?いくつの時?」「その日、どんなことをしていた?」「どんな感じだった?」「天気はどうだった?」「今日は何かいいことありました?」。
市役所内での職員へのインタビュー。太田さんの過去を語る職員。なんてことはない、誰にでもありそうな太田さんの日常が他者によって語られる。それは太田さんについての語りであるとともに、語る者の現在を語ることでもある。
太田さんの物語(=時間)を経由することで自己へと繋がる。語りにより、太田さんと語る自己が物語として繋がるのだが、それだけではない。職員の語りは市役所という構造物の様相が露わになる装置ともなる。
ソファーに座る職員の後景に窓があり、樹木の葉がかすかにゆれている。外気音もかすかに聞こえる。そして、人気のない市役所の廊下と広い室内。どうってことない日常の光景なのだが、無音の役所はわずかに位相がずれているような雰囲気だ。
インタビューのシーンが終わると、タイトル「あの日、この日、その日」の呈示となる。
《第一変奏》
YAMATO郊外の森林公園だろうか、カメラは木々を背景にユキ(村上由規乃)さんと山崎(山崎陽平)さんを捉える。ふたりはまるでコントを行なっているかのように、魔法瓶を肩から下げるためのショルダーの調整をしている。固定カメラによる長いシーンだ。
ユキさんと山崎さんは人気のないところを探す。池で石投げ遊び。軍用機の音が背景音として重なる。ここはYAMATOなのだ。
シートに腰を下ろしウクレレを弾く太田(小川幹郎)さんの姿。太田さんは後ろを向く。ユキさんと山崎さんを見かけたので、と太田さんは語る。唐突な出現だが、これが太田さんの実相なのだろう。ここで太田さんも加わった三人のピクニックが始まる。
三人の語らい。いじめの話。ウクレレの話。
ウクレレを弾いてほしいと太田さんに頼むユキさんと山崎さん。太田さんは人に聞かせるようなものじゃないと言いながらも、ウクレレを弾く。
三人でフリスビーをするため三角形の円陣をはる。カメラは円陣の中心にあるのか、それとも“構図/逆構図”の構成位置なのか、どちらにしても三人の視線は円陣の中心から外れない。ある種の等速度円運動。円運動には必然として円の外へと向かう加速度が発生する。つまり、フリスビーが遠くへ飛ぶ。彼らの視線も遠くへ飛ぶ。この現象、面白いなあ。
ウクレレに飽きたのか、太田さんがシートの上で眠っている。上空に米軍機の轟音。
《第二変奏》
自販機の前のユキさんと山崎さん。
二人が戻るとシートには太田さんが消えていない。
太田さんは在なのか不在なのか。退職という不在。消えてしまったという不在。太田さんは不在となる以前に、はたして在たのだろうか。“在/不在”は日常に潜んでいて、両者の狭間は不気味だ。
夕方、公園の遊歩道を歩くユキさん。映画を見る私はユキさんへの視線を感じる。カメラの位置に山崎さんがいるのだろうか。
中心にLEDのついたフリスビー。ユキさんと山崎さんのフリスビーの往還。なんてことはない往還。ここで映画は終わる。
《終奏》
日常からわずかに位相をずらすということ。どうってことのない日常でありながら、日常からわずかに位相をずらすことで日常は日常でなくなる。でも、それも日常。たとえば人のいない市役所の廊下とか不在とか。いつだってそれは在るのだが、なんだか不思議。
インタビューも、ある意味、質問者による自己の鏡の背面(=不在)を覗き見る行為。日常とは違った日常が顕れる。「生の横溢を賛美するのは鏡の背面に死が貼り付いているからなのだ」(現代詩手帖2022.3.三浦雅士「詩とは生き方のことである」)。
在ないことにおいて存在を浮かび上がらせるという背理。在ないことで存在は背理として微かに浮遊する。
不在、それは後景としての風景(市役所の窓の外の風景。樹木の葉のざわめき)に何かを立ち現せる。この何気ないショットは衝撃的であった。
私が山本英作品をはじめて見たのは
『小さな声で囁いて』(2018)
である。
熱海にプチバカンスに出かけた沙良と遼。遼は将来の家庭設計に頭がいっぱいだが、沙良はなぜ遼を好きになったのかを自問している。二人の行動はすれ違い、彼らの溝は深まっていく。味気なく、閑散とした熱海の夜の風景が、内省の時を過ごす二人の心象に寄り添いながら日を重ねる4日間の物語。
私の映画日記に二千字余りのメモがある。読み返すと断片的記述が多く、noteに発表するのは気が引ける。本稿の締めくくりとして、山本英作品の特質とも思える叙情としての風景(本稿での葉のざわめき)に繋がる文を転記しておきたい。映画終盤の4日目についての熱海の情景である。
朝、椰子の木のある草地に寝そべる沙良。寝ているところを朝の光で目覚めたのだろうか、光が当たり沙良は眩しそうだ。森を彷徨う沙良。フレーム中央に両脇が樹木で覆われた遠近法的な細い道があり、その先には光に満ちた明るい海があるようだ。沙良は道を進む。背後から捉えている沙良の姿。樹林を抜けたあたりで沙良は立ち止まる。そこに男が姿を現す。遠近法で捉えられた樹木の道の消滅するあたり、それは遼であると推測できた。フレームの中心の二人は光のシルエット。美しい光の光景。何か奇跡が起きたよう。そして、遼と沙良のアップになり、遼は沙良にキスをしようとするところでストップモーション。ここで映画は終わる。
『小さな声で囁いて』は光の映画でもある。街の人工的な光と自然の光。スマホの光、夜の公園の光、ゲームセンターの遊戯道具の光、ネオンで装飾された椰子の木のオブジェ、花火、熱海の美しい太陽の光、草地で眠る沙良を目覚めさせるかのような奇跡のような美しい光。それら光の断片が、映画の光(昔日の廃墟のような映画館ロマンス座)を介して旅行映画の新しいフィクションを作り出している。
断片化という唐突さを奇跡に変える光。それは啓示と言えないだろうか。ロッセリーニの奇跡も唐突に起きた。いや、軌跡とは元来唐突であるから奇跡なのだ。ドライヤーの諸作品だってそうではないか。本作は、それら映画史を想起させる作品でもある。
倦怠期のカップルの熱海旅行と昔日の劇場空間。カップルと劇場という何ら関連もないかのように思える二者を、光をタームとして結びつけた奇跡の映画。光(=啓示)による奇跡という意味で、ロッセリーニの倦怠期のカップルの映画『イタリア旅行』(1953)を想うのは自然だろう。
(amateur 🌱 衣川正和)
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