【ダンス評】 桑折現、戸山央《Flow/Flows》 高木貴久恵のダンス
滋賀県民芸術創造展示ホールで行われた《Flow/Flows》と題したインスタレーションの一環として行われたダンスパフォーマンスの覚書である。
演出:桑折(こり)現
振付:高木貴久恵
映像:桑折 現、戸山央(ひろし)
音楽:戸山央
出演:高木貴久恵、高山麻里子
演出の桑折 現によれば、「Flow」の原義は「液体が(滑るように)流れる」ということであり、「流れる」「循環する」「絶え間なく動く」「あふれる」「~から生じる」「動き」「行き来」「絶え間ない供給」ということである。
「水」という物質を、わたしたちはどのように捉えればいいのか。古典を参照するまでもなく、水の流れや形態は止まることを知らず、生きることの基盤となることもあれば、わたしたちを無残にも拒むこともある。
3.11では、拒むどころか、わたしたちを呑み込むという残酷な経験すらある。また「水」は、液体という眼前の物質としてあるばかりではなく、大気の中にも存在し、大地から草花や樹々の管を通して植物の葉脈にも流れる。
水の動きは「水」そのものが有する固有値ではないのだが、何らかの作用、たとえば傾斜だとか風だとか樹木の生命だとかの作用が加わることで、動きや循環という運動を生み出す。また、一見、水が停滞しているようであっても、熱による蒸発や浸透という作用により、ひとつの場所に止まることはない。
絶え間なく動き流れ循環する、そのようにあるのが「水」ということができる。
ここで、「水」を、物質からメディアへと変換したとしたら。
今回のインスタレーションとダンスは、水の、物質からメディアへの変換という作業なのではないのか。水という運動体の持つ変化、循環、反復、消滅。そこに身体を置くということは、水と身体との関係性を立ち現せるということ。つまり、関係性・媒介というメディアの原義としての水の表出ではないかという気がする。
水そのものは決してメディアではない。だが、身体を介在させることで、関係性・媒介というメディアが立ち現れる。そしてそこには、高木貴久恵と高山麻里子の二人のダンサーの身体の関係性・媒介をも露出する。
はじめ、高木の身体は自然の観察者として現れ、ついで身体と自然の相互移入。それは、高山の身体へと受け継がれる。高木の身体は水というメディアに関係することで高山の身体へと接続される。
二人の身体は類似しているようでいて、大きな差異を生じさせる。それは決して意図的というのではなく、メディアを介在させることで、差異は必然として生じる。自然の観察者として現れた高木は、やがて、高山の観察者となり、ダンスは終演する。不思議な時間と空間の中で、気づくとわたしの身体も、メディアをいう現象を生じていた。
本公演の振付・ダンサーである高木貴久恵について、京都三条通Gallery PARCで行われたダンスパフォーマンス『ぶこつな霞』を軸に補足しておきたい。
『ぶこつな霞』は3つの部分から構成される。
第一部「trio」出演:小寺麻子、高木貴久恵、福井幸代、音楽:genseiichi
第二部「solo」出演:佐伯有香
第三部「futago」出演:荻野ちよ、佐伯有香、音楽:山崎信吾(ex.GTSVL)
第一部「trio」
持続する音に身体を溶け込ませること。そして軽やかな打音の隙間に身体を滑り込ませること。ダンスカンパニー「dots」のメンバーである高木貴久恵は本公演でも期待できるダンサーであると確信した。
第二部「solo」
佐伯有香のソロ。Gallery PARC特有の無音の空間を上手く使いながら、例えばガラス越しに外を見つめるという日常的な行為の中にも、ダンスに繋がるものがあるのだと思わせ、興味深かった。
第三部「futago」
ダンスユニット〈双子の未亡人〉の荻野ちよと佐伯有香のデュオ。二人の双対性というかの、そうである意味がわたしには分からなかった。双子であることの意味の意識化がわたしの理解を超えているように感じられたのだ。
ダンスカンパニー「モノクロームサーカス」と繋がるダンサーたちが今後どのような作業へと向かうのか、興味深い公演でもあった。また、ベルギーのローザスを思わせる雰囲気もあったが、彼女らのダンスには大気中の湿度を感じさせる、まぎれもなくアジア的なもの好感が持てた。
以下、わたしの感想を補足してみたい。
①タイトルの要素である「ぶこつ」とは形象に付随する用語なのだが、それが「霞」という漠然したイメージとどのように結びつくのか。あるいは「ぶこつ」と「霞」とは結果であり、何らかのイメージがダンサーの身体に流し込まれた事後の表出として「ぶこつ」な「霞」があるのか。
②三演目のうち、「trio」における高木貴久恵のダンスがもっとも興味深かった。
高木貴久恵のダンスをはじめて見たのは演劇計画2009白井剛演出『静物画 ― still life』(京都芸術センター)である。4人のダンサーの中でとりわけ目に焼きついたのが彼女だった。意識がダンスにだけ向かっている純粋眼差しというのか、自分の身体に対する意識が、他の誰よりも強いという印象を受けたのだ。その後見る機会はなかったが、再び目にする機会が訪れ、なんと幸せなことなのだろうと思った。
高木貴久恵は京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)情報デザイン科の学生であったとき、身体をモチーフにした美術作品を作っていたという。それは、自分の肉体というものが信頼できず、他の人から自分がどのように見えているのか確信が持てなかったからだという。身体とはまぎれもなく自分のものであるのだが、それは何によって自己(=内部)と知覚されるのか。そして知覚された身体は、身体それ自体により何を知覚するのか。そのことは必ずしも明確なことではないし、身体は、見られる存在としての“外部”でもあると髙木は述べる。
身体をモチーフにした美術作品を作るとは、自己の意識下に流し込まれた記憶や時間を意識上に浮かび上がらせ、他のメディウムに置き換えることで再び身体として知覚させることである。彼女のダンスを見ていると、系列〈自己→メディウム→身体〉がうなずけ、演劇計画2009から4年後のパフォーマンス公演『ぶこつな霞』は、さらなる深度へと向かっているように思えた。
彼女の身体は共演者である小寺麻子、福井幸代との身体的相互共感・交感をみるのは当然なのだが、わたしにはそれよりも、Gallery PARCという空間(触媒、中間項)というメディウムとの共感・交感に興味を覚えた。ギャラリーの空間内部に在る彼女の身体は正面と側面の全面ガラス張りのウィンドウを通して外部(=三条通の街路)へと接続され、もう一方の側面の階段と手すりを挟んだ白い壁により外部と切断されている。接続と切断というGallery PARCが内包する二重性。これは見られる身体と知覚する身体……遮断され外部からは見えない身体という他者性と、自己の身体は見ることはでいないという身体の知覚性……という二重性と相似のようであった。このことにとりわけ自覚的だったのが高木貴久恵である、とわたしには思えた。いや、正直に言えば、彼女のダンスとの関連における知覚する身体について、わたしは整理し得ていないのだが…。
接続と切断という、見る者(=観客)の意識を宙吊りにする空間に持続音と軽やか打音が流れていた。彼女は持続音に身体を溶け込ませながらも、打音により打ち出される時間に身体を滑り込ませることで、Gallery PARCという空間メディウムが持つ固有の身体を、髙木自身の身体として表象しようとしたのではないかと思えた。この表象とは、見るわたしには接続不可能なものでしかないのだが、Gallery PARCの身体を媒介とすることで、見るわたしの記憶がどこか別な知覚へと結びつくように思えたのである。
(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)
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