《七里圭作品・鑑賞日記》 (Vol.1) 『眠り姫』アクースモニウム上映
(見出し画像:『眠り姫』アクースモニウム上映「Kei Shichiri HPから」)
七里圭監督作品をすべて見たわけではないが、時間が許せば意識的に見るようにしている。私に七里圭論を書くほどの分析力はないが、どの作品も私の映画領域や認識を刷新するほどの不思議な力がある。
以下は、鑑賞した映画の断片をとどめておくために綴っている『映画日記』から七里圭作品に関する記述を抜き出し、《七里圭作品・鑑賞日記》としてまとめたものである。七里圭作品の特質上、アート全般を横断する論考にならざるをえないことをお許し願いたい。
作品タイトル以外に鑑賞した日付と会場を付した。それは、七里圭作品においては、同名の作品であっても、上映会場により内容が異なることもあり、また、上映形態や会場の光や音の回り方による印象の違いがあるからである。その意味で、七里圭作品ではタイトル、日付、会場は不可分であると私は思う。
2024年10月からの七里圭の新作『ピアニストを待ちながら』上映に向け、
週に1・2度のペースで更新する予定である。
《七里圭作品・鑑賞日記》としてまとめるにあたり、改稿、追記した。
2013年6月18日
『眠り姫』(2007)アクースモニウム上映@同志社寒梅館クローバーホール
映画を熱心に見るほどではない私にとり、七里圭の名はこの時点では耳にしたことすらなかった。タイトル『眠り姫』と未知の世界であるアクースモニウムにひかれて会場に足を運んだのだ。つまり、これがはじめての七里圭作品体験である。しかも『眠り姫』の世界初のアクースモニウム(演奏:檜垣智也)上映。それなのに、この日の鑑賞メモがどこかに消え、手元にない。視覚と聴覚の残滓のような記憶をここに再現してみたい。
上映体験は衝撃であった。映画上映には収まりきれない、映像と音との予想を超えたパフォーマンスである。同志社寒梅館クローバーホールでの『眠り姫』アクースモニウム上映。これが七里圭作品との邂逅であるとは、なんと贅沢な体験なことか。私の脳細胞には、等式「七里圭=眠り姫」、がインプットされたと言っても過言ではない。
ホールに足を踏み入れると、正面に通常のスクリーン、中央にPCと音響操作卓。音響操作卓周辺には観客用の椅子と通常のPAを超えた多種多様な形態、色とりどりのスピーカーが所狭しと配置されている。観客の耳元近くにスピーカーが配置されていたりもする。上映中にホールを歩くことが可能ならば、それは、美術館のホワイトキューブで馴染みある音と映像のインスタレーションと呼ぶにふさわしいと思える設えである。作曲家・檜垣智也によるアクースモニウムによる日本初上映である。
アクースモニウム。はじめて耳にする、どこか魅惑的な響の名称だが、音響的にはフランスの作曲家リュック・フェラーリ(注2)のテープ音楽『ミュージック・プロムナード』(1964〜1969)を想起させる。フェラーリの『ミュージック・プロムナード』は旅の音楽。技法的にはミュージック・コンクレートに分類される音楽だが、ストックホルム、ハンブルク、パリ、アミアン、バーデン=バーデンのスタジオを遍歴したのちに完成した録音とモンタージュを通しての音との出会いの旅である。フェラーリはこう述べる。「物語にははっきりした筋はないが暗示はある。音による演劇ということができる。…(中略)…聴衆ひとりひとりが筋を作りあげていくものです。それは作曲家が最初に考えていたものとは違っていくものでありうる。ここに、作曲家と聴衆との協力が可能となってくる。」
ただ、私がフェラーリの『ミュージック・プロムナード』を想起したのは、アクースモニウム上映時の音素材が『眠り姫』のサウンド・トラックということを前提としていることもあり、これで、アクースモニウムについて説明したことには必ずしもならないだろう。当日の上映の様子から推測して再度説明するならば、アクースモニウムとは、サウンド・トラックをいくつものトラックに分解・脱構築(音素にまで分解・脱構築されているのかもしれないが不明)し、データ化された音素材を映像の上映とリルタイムに再構築する音の空間化のパフォーマンスと言えるだろう。スピーカーから出る音はそれそれぞれ異なるため、座る位置により、音体験の相当の差があるだろう。通常の上映のように、観客全員が同じ音響に対峙するのではない。寺山修司が『疫病流行記』で観客席をいくつものブロックに分け、ブロックごとにカーテンを “開ける/閉じる” ことで、見える演劇、見えない演劇を実践したように、同志社寒梅館クローバーホールでのアクースモニウム上映は、座る位置により、“聞きとれる/聞きとれない” という異なる音体験をすることになる。音体験ばかりではない。視覚上、スピーカーがスクリーンに被さる座席もあり、通常の映画上映では絶対にあってはならない映像が “見える/見えない” 事態も発生する。観客は、必ずしもスクリーンを凝視し続けることを要請されない自由、ある種の快楽・解放を享受することになる。アクースモニウム上映は音響のクオリティーのみにあるのではなく、稀有な眼と耳の体験に誘ってくれるのである。
原作は山本直樹の同名の漫画ということなのだが、その映画化と言ってしまえば正確ではない。本作に含まれる妄想譚、これには嘘の嘘という二重否定がある。嘘の反復による二重否定。ただ、『眠り姫』の二重否定は古典論理のセオリーにおさまることはなく、二重否定は肯定には還元されない。妄想譚に古典論理のセオリーが入り込む余地はない。トイレ幻想、カーテン幻想、顔の肥大幻想、学校幻想、薬幻想、不在現象、女の悲鳴。それら妄想譚をアクースモニウムが立体化する。音と映像のインスタレーションでありなが、これは映画であるに違いないと、現時点では、そう結論づけておきたい。
映画としての『眠り姫』についても深入りする必要があるのだが、アクースモニウム上映ではない純粋な(?)『眠り姫』は未見であるため、本来の『眠り姫』について述べるのは、純粋『眠り姫』体験まで待つことにしよう。
ところで、今回の上映を、「音と映像のインスタレーションと呼ぶにふさわしい」、と口走ってしまったのだが、この表現は必ずしも正しくはない(間違いとまで言い切る確信はない)。私の経験では、「音と映像のインスタレーション」はその場に身を置く者(鑑賞者)の身体を前提としており、さらに映像と映画とは根本的に違う、ということだ。
たとえば、ダグ・エイケン(注3)の音と映像のインスタレーションを思い出してみる。彼のインスタレーション『i am in you』体験はこのようにある。
インスタレーションの会場には5つのスクリーンがあり、アメリカ郊外の日常的な風景が映し出されている。そのなかで、人間、自然、幾何学的な図形といったイメージが浮かび上がり、少女のささやく声や手拍子のリズム、ピアノの旋律が軽快に重なる。物語に明確な輪郭はなく、イメージは断片化され反復的に繰り返される。インスタレーション会場を歩く私は捉え所のないイメージの渦中で、不思議な脈動に捕らえられた身体を感じることになる。そこには存在の明証性も物語の連続性とも無縁な、かといって異和でもない、速度の身体性、流動する身体の存在として私はある。イメージに重なる少女の囁きと手拍子の作り出すリズム。少女が打つ手拍子。少女と他者のタッチによる手拍子の作り出す遊戯的なリズム。手拍子という身体性が自己と他者の存在を際立たせ、その渦中のなかで、私は存在の明確な輪郭を持つことになる。
そんな意味で、「音と映像のインスタレーション」における体験は、身体においてである。会場内の歩行は音と映像の渦中における持続する身体においてしかないし、この場合の映像とはイメージであり、そこにはショットという切断(=映画)はない。
ペドロ・コスタ(注4)はこう述べる。「ショットとは映像であるといわれることがありますが、私はこうしてできあがるショットはイマージュではないと思います」。
またテオドール・アドルノ(注5)は「中断」と表現したことがある。素材を別な素材によって中断していく。そのことにより、現実というものがショットに介入してくる。映画とは、インスタレーションの造形的な要素によって構成されイメージの連続性ではなく、中断の集積体のことなのだ。そこには「ショットがモンタージュされることで生み出される衝撃」(ペドロ・コスタ)が発生する。七里圭『眠り姫』には、その衝撃が揺るぎなくある。これは、七里監督がのちに展開する「映画が〝映画のようなもの〟にすり替わっていることの違和感」といった主題に繋がるものである。
ここで誤解を生まないために言っておきたいのは、私は「インスタレーション」を批判しているのではない。ダグ・エイケンの『i am in you』は自己の身体のありようを感動的なまでに体験したし、森美術館でのアピチャッポン・ウィーラセタンク(注6)と久門剛史(注7)による南米コロンビアを舞台にした映画『メモリア』(2018)に関連したインスタレーション『シンクロニシティ』に、個人の記憶と社会・国家といった集合体の社会的記憶の対比を見事に表象していることを感じた。『シンクロニシティ』を鑑賞した日の映画日記に、私は次のように書き、感動を隠せなかった。
《七里圭作品・鑑賞日記》としながら、七里圭作品から外れた内容になっているように思えるが、それは、七里圭作品が、のちに述べる多層性、メディウム(medium)、亡霊、派生性と関連することに起因するからである。今後の鑑賞日記も、外れる・脱線するに違いない。
(注1)檜垣智也
1974年、山口県生まれ。私が知る檜垣智也氏は『眠り姫』のアクースモニウム演奏者、そして、ロームシアターで開催された寒川昌子「ド音ピアノ」演奏会の共演者としてであるが、世界中でアクースモニウムを演奏しながら、創作・研究・教育活動を行っている。リュック・フェラーリ・コンクール(2003)で最高賞を受賞。 2枚のソロCD『Mahoroba』(2011)、『囚われた女』(2015)をリリースしている。
寒川昌子「ド音ピアノ」は七里圭作品に音響面でも参加している。
寒川昌子「ド音ピアノ」@ロームシアターは下記webを。
(注2)リュック・フェラーリ
1929~2005。フランスの作曲家。電子音楽で知られる。環境音の利用がフェラーリの音楽語法の特徴となっている。映画監督としても魅力的な作品が多く、私は『ほとんど何もない、あるいは生きる欲望』(1972・1973)等を鑑賞している。
フェラーリについては『サロメの娘 アナザサイド in progress』に関連し、ふたたび言及することになるだろう。
映画『ほとんど何もない、あるいは生きる欲望』、テープ音楽『ミュージック・プロムナード』は下記webを。
(注3)ダグ・エイケン
1968年生まれ。アメリカのアーティスト。立体的な構造のマルチスクーンに映像を投影しサウンドをシンクロさせる実験的作品で知られる。
『i am in you』については下記webを。
(注4)ペドロ・コスタ
1958年生まれ。ポルトガルの映画監督。ドキュメンタリーとフィクションを自由に横断したスタイルの作風で知られる。発言の引用は『歩く、見る、待つ ペドロ・コスタ映画論講義』(土田環編訳、ソリレス書店)
(注5)テオドール・アドルノ
1903〜1969。ドイツの哲学者、社会学者、音楽評論家。大学生時代から音楽評論活動を行い、「中断」は映画音楽における発言なのだが、ここでは映画のショットに拡大して引用した。
(注6)アピチャッポン・ウィーラセタンク
1970年生まれ。タイの映画監督、プロデューサー、美術家。アピチャートポン・ウィーラセータンクとも表記される。タイの凄惨な歴史を古層としての神話と現代の狭間を彷徨する作風による『光りの墓』などで知られている。
映画『メモリア』については下記webを。
(注7)久門剛史
1981年、京都府生まれ。人の営みを構成する根源的な感性や唯一性/永遠性に関心を寄せたインスタレーションなど多様な手法で見せるコンセプチュアルな作品を発表。(Ota Fine Artsから一部引用)
次回《七里圭作品・鑑賞日記》(Vol.2)は『DUBHOUSE:物質試行52』
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)