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映画の扉_cinema

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どんなに移動手段が発達しても世界のすべては見れないから、わたしは映画で世界を知る。
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#映画レビュー

【映画評】 宮崎大祐『#ミトヤマネ』…「ミト」論・本章(1)

本稿は 《宮崎大祐『#ミトヤマネ』…「ミト」論・序章…遠近法による一元化》 の続編です。 本章(1) 序章では天皇表象における遠近法による意味の一元化について述べた。ただ、序章で述べたのは日本の新聞写真上の「天皇夫妻の写真」における〈遠近法〉による意味の一元化ということであり、わたしはイメージにおける〈遠近法〉の危険性を指摘したまでである。そこでの〈遠近法〉の要旨は、たとえば射影幾何学の、視覚の円錐の頂点から世界へと射影する主体への付与であり、集団無意識(=国民)の奥底で

【映画評】 ギョーム・ブラック『遭難者』 バカンスの最大の敵は遅延だ

ギョーム・ブラック『遭難者』(2009)Le naufragé フランス北部の小さな港町オルト。 サイクリング中にパンクしたことで、「くそっ!」と草むらに自転車を投げ捨てるリュック(ジュリアン・リュカ)。 どこかゴダール的な諦念の罵声と行為も思えるのだが、こんなことで映画の始まりを見せるなんて、ギョーム・ブラックは尋常な監督ではないことが既に読み取れる。そしてよりによってか、どう控え目に見ても冴えないとしか思えない男シルヴァン(ヴァンサン・マケーニュ)が通り掛り、サイクリン

【映画評】 チャン・ゴンジェ『ひと夏のファンタジア』

チャン・ゴンジェ『ひと夏のファンタジア』(2014) 作品解説に 「映画監督の夢の映画とは何か。トリュフォーの『アメリカの夜』など映画製作の舞台裏を描いた名作群に連なる、新たな傑作の誕生」 とあるが、トリュフォーと比較するまでもないほどに魅力的な作品である。 作品は2つの章からなる。 (第1章) 奈良県五條市にシナリオ・ハンティングにやってきた韓国の映画監督テフン(イム・ヒョングク)。 彼は日本語を話す助手ミジョン(キム・セビョク)とともに、古い喫茶店、廃校、ひとり暮ら

【映画評】 河瀬直美映像個展(ドキュメンタリー作品集)覚書

1本の映画を見て、その中から外部としての幾本かの映画を思い浮かべることがある。それは引用であったり、他者へのオマージュであったりするわけだけれど、そのような直接的な関連ではなく、表現の概念的な眼差しというか、カメラのこちら側の思考への共鳴というものを感じることがある。チャン・ゴンジェ『ひと夏のファンタジア』のクレジットを見て、ああそうなのか、と思った。チャン・コンジェが描く世界に、河瀬直美監督は共感したに違いないと思ったのだ。 河瀬監督の初期作品には、フィクションとドキュメン

【映画評】 宮崎大祐『#ミトヤマネ』…「ミト」論・序章「遠近法による一元化」

序章…遠近法による一元化 写真はなにも語らない。写真は撮影者の説明なしにはなんの光景であるかもわからない。撮影者が意図的に埋め込ませた、あるいは偶然映り込んでしまったコードによってある程度の素性を知ることはできるが、ロラン・バルトが指摘したように、原理的には〈それは=かつて=あった(ça-a-été)〉ことしか示さない。それ以外のことはなにも語らない。このことは、とりあえずは正しいように思える。 いまここに、2005年6月28日付夕刊の新聞紙面の1面を飾った写真がある。各

【映画評】 ウォン・カーワイ『若き仕立屋の恋人 Long version』 エロスを記憶する手

ウォン・カーワイ『若き仕立屋の恋人 Long version』(原題)愛神 手(2004) 2001年のオムニバス映画『愛の神、エロス』の一編として発表された短編「若き仕立屋の恋」。 本作は再編集による「Long version」。とはいえ、時間は56分の中編である。 娼婦ホアに最後の衣装を届けるチャン(チャン・チェン)のクローズアップシーンで映画は始まる。そのとき、ホアは落ちぶれ、死を待つ病身となっていた。カメラはホア(コン・リー)を見つめるチャンの顔を捉え、ホアは自己

【映画評】 シャンタル・アケルマン『No Home Movie』 母ナタリー、ジャンヌ・ディエルマン

シャンタル・アケルマン『No Home Movie』(2015) パソコン上のスカイプ映像にアケルマン監督と彼女の母。監督が滞在しているオクラホマ、ニューヨークと、母のいるベルギーとの通信映像である。「なぜ撮影するの」母は問う。「近さを表現したいから」とアケルマン。ベルギーとアメリカ。遠く離れていても、娘のことが心配でならない母を想い、「近くにいる」とアケルマンは言いたかったのだろうか。 アケルマンとアウシュヴィッツの生き残りである母ナタリーとの会話に焦点を当て、カメラを

【映画評】 ジャンフランコ・ロージ『国境の夜想曲』 明けることのないNOTTURNO

ジャンフランコ・ロージ『国境の夜想曲』(2020) これは特別なドキュメンタリーだ。ドキュメンタリーを仮構したフィクショナルな映画。世界はフィクショナルであることをアプリオリとしたドキュメンタリー映画である。 監督であるジャンフランコ・ロージは、三年以上の歳月をかけ、イラク、シリア、レバノン、クルディスタンの国境地帯を撮影する。アメリカのアフガニスタンからの無責任な撤退後、さまざまな情勢が巻き起こる。侵略、圧政、テロリズムによる多くの犠牲。痛みに満ちた土地をジャンフランコ

【映画評】 宮崎大祐《ニンゲン三部作》 (2) 『I’ll Be Your Mirror』、そして『VIDEOPHOBIA』

本稿は 宮崎大祐《ニンゲン三部作》(1)『Caveman's Elegy』の続編として書かれています。 https://note.com/maas_cinema/n/n4a8b108dcc6b 宮崎大祐『I’ll Be Your Mirror』10分(2021) 本作は宮崎大祐監督の三部構成の作品『ニンゲン三部作』の第二部を成す作品である。 ひとりの男(永山竜弥)、そしてふたりの女優(廣田朋菜、芦那すみれ)が演じるひとりの女。 ルイス・ブニュエル『欲望のあいまいな対象

【映画評】 ジョー・スワンバーグ『ハンナだけど、生きていく!』

アメリカの新世代映画、アメリカン・ヌーヴェル・ヴァーグである映画。映画がフィルムからデジタルへと移行する大きなうねりの2000年代初め、新しいタイプのアメリカ映画を作ろうと若い世代が集まった。それは単なるインディペンデント映画ではなく、既存の大手のスタジオシステムでは不可能な、これまでに誰もできなかった新しいシステムとタイプの映画、つまり、映画の「新しいカタチ」(indieTokyoより)の形成を目指した若い世代たち。 その集団の名はマンブルコア(mumblecore)派。

【映画評】 アレクサンダー・クルーゲ『愛国女性』 シャベルを手に、歴史教師ガービは正しい「ドイツ史」を掘り起こす旅に出る。

アレクサンダー・クルーゲ『愛国女性』(1979) * 映画『ドイツの秋』(1978)に登場した歴史教師のガービは、既成のドイツ史の教材に疑問を抱き、シャベルを手に正しい「ドイツ史」を掘り起こす旅に出る。それが、アレクサンダー・クルーゲ『愛国女性』である。 戦争映画やニュース映像、絵画、コミックなどのコラージュが戦後ドイツを亡霊のごとく浮遊させる。 * 『ドイツの秋』は、ドイツ赤軍派(RAF)による1977年のダイムラー・ベンツ社長シュライヤーの誘拐、殺害を契機に製作された

【映画評】 アレックス・トンプソン『セント・フランシス』

ある批評家が、アレックス・トンプソン『セント・フランシス』(2019)“以前/以降”として映画は語られることになるだろう、と述べていた。 女性は初潮から閉経まで月に1度、平均1週間弱は生理という生命現象の中に生きている。とすれば、日常生活を描く物語に生理が描かれないのは不自然といえる。その中でナプキン、タンポン、生理カップといった生理用品が画面に現れないのも、寝起きのベッドのシーツに血液が付着したシーンが現れないのも不自然である。日常の食事は描かれるのに、同じく日常である生

【映画評】 黒沢清『クリーピー 偽りの隣人』

クリーピー(creepy)とは「きみのわるい」という意味。背景や原因をつかめない不気味さ、まさしくサイコスリラーの真髄ともいえる用語である。本作の場合、サイコパス(反社会的パーソナリティ障害)であり、理知的・独自性の際立つ殺人である。 心理的・生理的(薬物等で)に他人を手中に収め偽りの関係を築き、自らも他人になりすますことで殺人を他者の行為となす。 黒沢清『クリーピー 偽りの隣人』CREEPY(2016)の場合、 隣人・西野になりすました男(香川照之)がサイコパスとしてのサイ

【映画評】 ジャン=リュック・ゴダール『さらば、愛の言葉よ』についての断片的資料

以下の文は、ジャン=リュック・ゴダール『さらば、愛の言葉よ』(原題)Adieu, au langage(さらば、言葉よ)を映画館で2度鑑賞し、その記憶をもとに書いたものです。いわば散乱した断片の集積であり、論考ではありません。 本作は【第1幕】と【第2幕】からなり、【第2幕】は【第1幕】の反復としてある。 言うまでもないが、反復は多くの差異の集積である。 それぞれの幕は2つの章[自然]と[メタファー]から成る。 また、処理できないほどの夥しい言葉とキャプション、そして音響、