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映画の扉_cinema

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どんなに移動手段が発達しても世界のすべては見れないから、わたしは映画で世界を知る。
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#映画日記

《映画日記20》 染谷将太 / アドルノ / ワン・ビン / 三宅唱 / ほか

(見出し画像:ワン・ビン『鉄西区』) 本文は 《映画日記19》パリの映画日記 の続編です。 この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。 地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく、「outdated遅評」であることをご了承ください。 * 染谷将太『シミラー バット ディファレント』短編(2013)

《映画日記16》 記憶を復元する(Vol.1)メカス/ホアン・シー/アルフォンソ・キュアロン/ほか

(見出し画像:アルフォンソ・キュアロン『ローマ/ROMA』) 本文は 《映画日記15》濱口竜介の短・長編/ジャン=マリー・ストローブ/ファスビンダー/クルーゲ/ほか の続編です。 この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。 地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく「outdated遅評」であることを

《映画日記6》 五十嵐耕平、ダミアン・マニヴェル作品、ほか

本エッセイは 《映画日記5》アンゲラ・シャーネレク、ストローブ=ユイレ作品、ほか の続編です。 わたしにとり、映画という形式は暴力装置である。始まりがあり、終わりがあり、映画を見るわたしは、その時間に介入することはできない。なぜなら、介入とは映画の時間の切断であり、映画を見るわたしが切断をしたことで、それは映画ではなくなる。“始まり/終わり”がアプリオリにある時間の連続体が映画である。それに抵抗することは許されないし、抵抗は反逆者すら作り出せない、ただ単に映画の外部へと追

《映画日記5》 アンゲラ・シャーネレク、ストローブ=ユイレ作品、ほか

(見出し画像:アンゲラ・シャーネレク『はかな(儚)き夢』) 本エッセイは 《映画日記4》アンドレイ・タルコフスキー、クリスティアン・ペッツォルト作品、ほか の続編です。 職業としての映画ライター。これは書き手である自己を離れた他者に向けて文を綴るという意味で、着地点を想定しなければならない。つまり、自己の文の他者による受容の想定である。映画ライターは論を進めると同時に、受容のための回路を構築しなければならない。そうでなければ、商品となる文ではなくなる。そのために、最初の