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映画の扉_cinema

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どんなに移動手段が発達しても世界のすべては見れないから、わたしは映画で世界を知る。
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#草野なつか

【映画評】 草野なつか『王国(あるいはその家について)』 〈声〉と〈身体〉に関するメモ

草野なつか『王国(あるいはその家について)』(英題)Domains(2018) 本作をはじめて見たのは2019年、神戸の元町映画館だった。その時は言語化(テキスト化)し、noteに発表した。 さらにより深く理解しようと、2019年10月の山形国際ドキュメンタリー映画祭で鑑賞。再び言語化を試みようとしたのだが、言葉は霧散し、わたしは成す術を失った。 今回(2024.2.26)、三度目の鑑賞となる出町座ではどうだろうか……。 たとえば、役者の身体も「家」であり、役者それぞれの

【映画評】 草野なつか『王国(あるいはその家について)』 Domains、家

草野なつか『王国(あるいはその家について)』(2018) 映画冒頭、検事による調書の朗読。亜希に事実確認をする事務的作業。映画を見るわたしたちは、審判への不意の立会人となるかのようだ。 幼い頃の亜希(澁谷麻美)と野土香(笠島智)。ふたりが台風の日に、一枚のシーツと椅子で作り上げたお城とその周辺を想像で作り上げた空間。それは少女の幻視の空間に過ぎないのだが、それは、ふたりだけの言語を介入させることで作り上げた、閉領域(本作では領土と名づけた)としての空間である。亜希はその領

【映画評】 安川有果監督『Dressing Up』の断片的試論

どこに在ってもいい気がするし、ここであるとか、あそこであるとか、名指しなどするほどでもなく、目が覚め、闇から抜けきらない意識の中でさえも、やはりそれは在るのであり、気付くまでもなく、そこには駆り立てるものがあり、それに抗おうにも為すすべはなく、例えば「降ろせ」と呟いてみたり、「死ね」と呟いてみたり、それらは車の走行音とか、得体の知れない音、例えばヘリのプロペラ音かもしれない雑音にかき消されたりもするのだけれど、確かに「降ろせ」とか「死ね」と何かに向かって命令したのであり、どこ