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あの日見た景色。震災から30年、今私たちにできること

30年前の今日、私が小学1年生の時、阪神淡路大震災が起きた。

私はちょうどその時間、シュプール号(スキー客輸送のために運行していた臨時の夜行列車の総称)に乗車中で、西宮を通過、もうすぐ下車駅の三ノ宮に着くため両親に起こされ降りる支度をしている時だった。
急にカタカタと小さく揺れ始め、その瞬間ガガガと大きく激しく揺れ停電し車内が真っ暗になった。小さく揺れ出した時、窓際に置いていたお茶を抑え、『落ちる!』と母が言ったのを覚えている。それだけ、こんな大変なことが起きているなんて誰も思わなかった。
すぐに車内はザワザワとし始め、誰かが海中電池で照らし車内のざわつきが少し見えた。カバンが落ちたり、食べ物やお茶が床に散らばっている。
私たちが乗ってきた電車は脱線し、ななめになっていたが横転することはなく止まった。
けどまだ外も暗く、真っ暗な車内で誰かがカメラで写真を取り出した。フラッシュがたかれ一瞬だけ明るくなり車内が照らされる。
その時、おじさんが『こんな時に写真撮りやがって、誰や!辞めんかい!』と叫び、どこからか子供の泣き声と、誰かと誰かが暗闇のなか言い合いになっている声がする。
カメラを撮った人がみんなから怒られてる。今考えれば、こんな時に不謹慎だと批判されていたのだろう。だけど、あの時、あの写真を撮った人がいたからあの悲惨さが今も記憶だけでなく記録として残っているのだ。
当時携帯もなく、記録としてあの瞬間を残せているのはあのカメラだけ。あのカメラにはどんなものが写っていたのだろう。

車掌さんの指示のもと、電車から小さいはしごを使って降りて、一度みんな寒い線路の上に集まる。
その時には既に線路沿いの目の前の家が火事になっていた。人生で初めてあんなに火が燃え上がっているのを見た。母親みたいな人がパジャマで線路上にいる私たち乗客の集団に向かって大きく手を振り、『中に子供がいます、助けて下さい』と震えた様な大きな声で言っていた。乗客の男の人たちが走り出す。父も、母と私と兄を線路に残して、手伝いに走った。
『できるだけ毛布を集めて』と誰かが叫んでいる。
『誰か看護婦はいませんか』『手伝える人はいませんか』と誰かが助けを求めている。
看護師の母は私と兄に『絶対戻るから絶対ここにいてね』と言って向かった。
あの時すごく怖かったのを今でもはっきり覚えている。当時小学1年の私と3年の兄。よく喧嘩していたがその時だけすごく兄がいることだけが心強かった。
私たちの横にいたお姉ちゃんたち数人のグループが『お姉ちゃん達と待っていようか』と声をかけてくれた。女子大生くらいだろう。名前を聞かれる答えると『まきちゃん!私も同じ名前!』と言われ、急にほっとした気持ちになった。

安心したからかそのあと火事の家がどうなったのか、中の人は助かったのかは全然覚えていない。

そこから父の職場が倒壊し、多くの被災者が出ているとポケベルで呼ばれ、父は1人で職場に行くことになった。その日からしばらく帰って来れなかった。母も不安だっただろう。ポケベルは父しか持っていない。唯一の公衆電話には行列が出来、電話線も切れていて上手く繋がらず何日も連絡を取れない日が続いていたと後々母に聞いたことがあった。
今は携帯で当たり前のように連絡を取れ、相手の無事を確認することができる。それがどれだけ奇跡でありがたいことなのか今になってやっと分かる。

スキー旅行の最終日に兄は高熱を出していた。あとは夜行列車に乗って帰るだけだから大丈夫だよとぐったりしている兄にホテルで母が話していた。

昼前には高熱の兄と私と母で、70キロほど離れた自宅に向けて少しでも歩こうと歩き出した。それしか選択肢はない。道も塞がれ、道路もあらゆるところが切断され波を打っている。数日かければ歩けない距離じゃない。母がしゃがんで、私たちの目を見ながら『少しずつでも家に向かって帰ろう』と言い私たちは自宅のある西に向かって歩きだした。
電車の中でもうすぐ駅に着くから、できるだけ荷物は軽くしないとね、と飲み物も食べ物はほとんど食べてしまい持ってなかった。
残りはペットボトルのお茶1本と、缶のコーヒー牛乳が一本。冬なのに外はこんなに寒いのに、ずっと凸凹になった道を登ったり降りたりしているとすごく暑い。その水分を、3人で少しずつ飲んで凌いでいく。母にお兄ちゃん熱が出てるから多く飲ませてあげてと言われ、少し拗ねたのを今書きながら思い出した。
車が潰れて色んなところからずっとクラクションが鳴っている。
ガスが漏れて空気がガス臭い。
消防車のホースの上もみんな歩くからホースに小さい穴が開いて所々、水がピューっと噴き出ている。
少し進むと、また小さく揺れ、ありとあらゆる場所で悲鳴があがる。これを繰り返す。
そのまま飛び出してきたのだろうパジャマに靴下で歩いて人がたくさんいる。
壊れて横を向いている阪神高速の下をひたすら家に向かって歩いていく。
搬送途中だったのか大量のみかんを乗せたトラックが横転し、その辺にみかんが転がっている。
大きなビルも傾いており、その下を3人で走って通る。
帰って見たニュースではその後、しばらくしてビルは倒壊していた。

そんな中をずっと歩きながら、切断されているアスファルトの断面を見て道路の層ってこんなんなんやと冷静に思ったのを覚えている。
記憶として、あの日、目で見たことははっきりと今でも覚えていることも多いが、当時の記憶として何度も繰り返される余震の怖さや地震の悲惨さや、恐怖心の記憶ない。小学1年生でそれまで大きな地震などもなく、地震について考えたこともなかったからだろうか。

西宮から一日かけて夕方には兵庫あたりまでたどり着いた。そこであとは明日にしようと避難所を探すことにする。

父も母も九州の人間で関西には親戚がいない。身内ならば、近くまで迎えにきて欲しいと頼めるが、さすがに友人には頼めず、次の日にもう少し西まで歩き、安全が確保されている場所まで行き、迎えを頼むことにしようとなった。

避難所を見つけ、中に入ると10人ずつくらいのグループがたくさんあり、ろうそくを中心にみんなで円になって座っている。そこの一つのグループに混ぜて欲しいと頼み入れてもらう。
西宮からここまで歩いてきたことを母が話すとおじいちゃんやおばあちゃんが私と兄を頑張ったとたくさん褒めてくれた。

私と兄が疲れて体育館で横になって寝ていた時、1人のおばあちゃんが走って私たちの所にやってきて、『あなたたちの家の方面に帰る人を見つけた、頼んだから乗せていってもらいなさい』と声をかけてくれた。

帰れる!

急いでおばあちゃんに着いて行き、乗せてもらうことが出来た。みんなでギュウギュウになって帰ってきた。

避難所までの道のり、体育館で話したこと、中の雰囲気、全部おぼえているのに、帰れると分かって安心してからの記憶はあまりない。
連れて帰ってくれた人たちがどんな顔だったか、どんな話をしたのか。

それだけ子供なりの極限状態だったのだと思う。

夜中に家について、家の横のおばちゃんが『無事でよかった、おかえりなさい』とおにぎりを作って待っていてくれた。その時、おばちゃんが私たちを抱きしめながら泣いてたこと、これしか用意出来なくてごめんねと出してくれた塩おにぎりがとても美味しかったことをこの日を来るたびに思い出す。

自宅のある場所は小さい被害はあったが、問題なく生活できるレベルで私たちは、一日で通常の生活に戻った。
けれど、1年10年20年、そして今もなお、あの日、失ったものに苦しみ続けている人もいる。

神戸の街はとても綺麗になり、
日々の生活の中では震災の悲惨さを思い出せない街並みに変化している。

私たちができることは、あの日忘れずに、災害の経験を未来につなぎ、災害に備えて生活を改善することだろう。

これから私たちが生きているこの時代にまた、いつ来るかもわからないとてつもなく大きな災害に覚悟と備えが必要である。

今生きていることを感謝して、大切に1日を過ごして行きたい。

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まき
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