【ネタバレ感想】これは、“親愛なる隣人”のオリジンと救済の物語『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』
皆様たいへんお久しぶりです。朔磨(さくま)と申します。
過去のブログ同様note開設以後まったく更新ができなかったのですが、このたびかの『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(以下、NWH)を初日鑑賞して参りましたので、すっかり公開から日も経ってしまいましたが感想を絞ってまとめていこうと思います。
※注意
この記事は『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』及びマーベル・シネマティック・ユニバースの現行作品のネタバレを多分に含んでいます。以上の作品を未視聴の方は、ご視聴後の閲覧を強くお勧めします。
〇マルチバースへの真っ向からのぶつかりと救済
記事を思うがまま綴ろうとすると膨大な量になってしまいまとまりきらず、すっかり三週間も経ってしまったほど衝撃や余韻の凄まじい本作。
中でも自分がフォーカスしたいのは「救済」と「オリジン」だ。
足掛け20年にもわたる作品群をアッセンブルさせた本作は、その事象自体が“お祭案件”だが、過去のMCUにおけるマルチバースの扱いは二転三転してきた。
NWH内でもキーパーソンとなった『ドクター・ストレンジ』にて存在が示唆され、『ワンダヴィジョン』ではある種肩透かし的な活用がなされ物議をかもした。
続く『ロキ』『ホワット・イフ…?』ではMCUにおけるマルチバースの起源と構造、そして統制とその崩壊が描かれた。
これまではMCU・ディズニー内の作品及びそのキャラクター内で完結していたものが、NWHでは完全社外の過去作まで巻き込むとあっては、その「向き合い方」に正直一抹の不安もあった。
特に前回『ファー・フロム・ホーム(以下FFH)』ではマルチバースの否定の後にJ・K・シモンズ演じるJ・ジョナ・ジェイムソンが登場するものだから頭を思い切りかき回されたことも記憶に新しいからだ。
が、今回はその下積みと変遷を生かすよりも、真っ向から過去作にぶつかって答えを出していくという描き方で納得をもたらしてくれた。
世界観を共有しつつも交わることのなかった『デアデビル』のマット・マードックの登場に始まり、ヴィランたちの言葉ひとつひとつにも作り手側の過去シリーズへの真摯な姿勢と強火な解釈がありありと感じられた。
個人的にはエレクトロことマックス・ディロンの出番が多かったことも嬉しかったポイントだ。
気弱な善人が逆恨みと自己肥大から転げ落ちるようにヴィランに転向してしまったタイプなので、「悪人のままでいい」ことに説得力が増すうえ、彼に限らず監禁された挙げ句本来討たんとする敵がいないためにフランクな状態のヴィランたちは新鮮だった。
そして最大のヤマにしてサプライズである、トビー・マグワイア演じるピーター2とアンドリュー・ガーフィールド演じるピーター3の登場。
「ここまでやって出ないのはウソでしょう?」と半ば思っていながらも、3人のピーターが一堂に会するのを劇場で見られたことは歴史的なことだし、いやが上にも胸をガツンと打たれる。
屋上で、ラボで、お互いの過去や今を回顧する彼らを見るたびに目頭が熱くなると同時に、ジーンとなってつい拳を握りしめてしまう。
他にも気に入ったところは上げていけばキリがないが、やはり特筆すべきはヴィランの救済のみならずピーター2人への救済も用意されていたことだ。
厳密に言えばピーター2が殺させまいとしたノーマン・オズボーンは帰ると分岐が生まれてしまうまた別の存在のようなものと言えるし、ピーター3はMJを救うことができたがグウェンが戻ってくるわけではない。
他のユニバースで彼らの「やり直し」を行うセカンドチャンスを与えることで以て救済するというのは反則スレスレの手段だが、それでいてこれだけ広大な世界観を繋げてきた本作でなければできない芸当だ。
ある種過去シリーズの「打ち切り」にさえも意味を持たせ、決して悪い思い出にはさせない!というメッセージが形になっているようだった。
自分はまだ人生2回りしかしていないような若造だが、「スパイダーマンが好きで良かった」と心から思わせてくれる、真正面からの彼らの救済を描いてくれたことに、最大級の賛辞を送りたい。
─ただ本当に惜しむらくは、自分はテレビで初めて『スパイダーマン3』を見てスパイダーマンひいてはマーベルの世界に魅了されていったのだが、『ホーム・カミング』が上映されるまで劇場まで足を運んで見ていなかったこと。
『ホーム・カミング』をきっかけにMCUの世界に没入したクチとしてはスパイダーマンに感謝する一方で、理論値最大の感動体験ができなかったことを悔やむばかり。
もう10年ほど早く生まれたかった…。
◯“親愛なる隣人”のオリジンとしての是非
そして、NWHにおけるもうひとつのポイントが「3作にまたがるオリジンストーリーの完成」だ。
今回の構成やラストにおいては恐らく賛否両論あるところと思うが、自分にとってはこの『ホーム』三部作においては最も納得のいく、かつ必然的な結果を辿ったと感じた。
メタ的な視点で振り返ると、MCUのスパイダーマンと過去2シリーズにおける決定的な違いは、「周りを取り巻く環境」で、同シリーズはいずれもそれを受けたストーリーで「スパイダーマンとしてのオリジン」と捉えられるラストを迎えている。
MCUは既に幾度となく世界の危機が起こり、アベンジャーズをはじめとするスーパーヒーローがそれを守り、賛辞を得ている世界。
『シビル・ウォー』から鳴り物入りで登場し、『ホーム・カミング(以下HM)』ではヒーローとして認められるために奮闘するというティーン・エイジャー全開の青いスパイダーマンが新鮮に描かれた。
単独で地道にヒーロー活動をしていたところにいきなりその世界のトップと言えるトニー・スタークに見初められ、ハイテクスーツを授かったピーターはHMではスクールライフを押してでもスーパーヒーロー…スパイダーマンになろうとする。
最後にはハイテクスーツやアベンジャーズに頼ることなく、自身のパワーと正義感、椅子に座ってる仲間と悪を打倒することで、トニー直々にアベンジャーズにスカウトされるものの、ピーターは身の丈にあった「ご近所の平和を守る」ヒーローであることを選択する。
『シビル・ウォー』時点でスパイダーマンだったが、ここで初めてヒーローとして独り立ちし、オリジンと成るストーリーがHM…と捉えられる。
続くFFHでは、『エンドゲーム』を受けて前回から一転、ヒーローであることを忘れて高校生として恋愛や青春に打ち込もうとするが世間がそれを許さない…という苦悩を闘った。
ここで彼の周りにいたのはニック・フューリー(タロス)とミステリオことクエンティン・ベック。
身近なヒーローの先輩としてピーターを導くベックの背中が頼もしく感じられたのもつかの間、実際には虚構のヒーローだったミステリオによってトニーの形見を絡め取られてしまう。
師であるトニーを目の前で失いながらも、アベンジャーズのヒーローとしてその悲しみに暮れる暇さえなく、形見のE.D.I.T.H.も奪われる。
“スパイダーマン”でも“ピーター・パーカー”でもなく、“トニー・スタークの後継者”を求められ続けたことでスパイダーマンの立場はまたも揺らぐ。
最後はハイテクスーツなしでヴァルチャー看破したHMに続き、ウェブなしでも感覚を頼りに嘘やトリックを見破り、トニーの遺品を取り戻す。
ハイテクスーツなしでも、糸が出せなくても、これまでMCUのスパイダーマンは持ちうる力を駆使して戦う矜持を見せ、成長してきた。
しがらみを振り切り、ハッピーからトニーの思いを聞き、真昼のニューヨークをスウィングし、MJと結ばれる…これもまた「スパイダーマンのオリジン」として申し分ないし、事実当時自分は「この作品を以て、ついにピーターはスパイダーマンになった!」と感じたものだ。
では、此度のNWHではどうか。
物語の中盤、メイおばさんの意志に同調し、別のユニバースからのヴィランたちをただ帰すのではなく、死の運命から逃すべく救おうと奮闘する。
しかしピーターはそれを阻むグリーンゴブリンによって肉親のメイおばさんを失ってしまう。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という言葉を遺して。
過去シリーズではいずれもピーターは自分の行動が起因してベンおじさんを死なせてしまい、その遺言という形で前述の言葉を胸に刻んだ。
そしてラストにおいては、マルチバースからスパイダーマン=ピーター・パーカーを討たんとあらゆるユニバースからヴィランたちが押し寄せてくる。
それを食い止めるべく、ピーターはすべての人間から“ピーター・パーカー”の記憶を消す選択をする。
まずその議論が分かれるのは「この役をゲストたるグリーンゴブリンが担うこと」の是非だろう。
MCUのピーター・パーカーの物語ならば、そのユニバース内のみでアプローチがあったり、来訪者ではなく個別にきっかけを与える敵が必要だったのではないか…という問いかけも至極最もだ。
例えば、本作中ならスパイダーマンは悪だと信じて疑わないミステリオ派の者達の暴走だとか…。
しかし、自分がこれまで追ってきて見てきた彼の物語としては、このアプローチは実に必然的かつ直球な結果だったと感じた。
これもある種メタ的な視点になるが、ユニバースのトップバッターたるトニー・スターク、アベンジャーズを率いてきたニック・フューリー(タロス)。そして今度は全世界の民衆の目に晒され、別の宇宙からの訪問者までもが狙い来る。
常に誰かのリードやしがらみがついていたMCUスパイダーマンを取り巻く環境が、ここにきて極限に達する。
完結作と銘打ったNWHにおいて、このステップアップの構図と、シリーズ始まりの顔のひとりとも言えるウィレム・デフォー演じるグリーンゴブリンが最大のターニングポイントとなる…。
映画スパイダーマン20年の歴史を包括する本作で、常に誰からとともにあったMCUピーターの物語がついに完成を見たのだ…と自分は解釈した。
そう考えれば、こういった運びになったのも納得できないだろうか。
最後に、本作のラストをどう解釈するか。
先程までに触れてきたように、MCUのピーターはピーター2やピーター3に比べスタート時から比較にならないほど多くのものを持っていたが、最後は誰よりも孤独となり、悲劇的な選択をした。
だが悲劇的であると同時に、こちらも積み重ねの美しさが生んだ納得と希望に満ちている。
そう思えてならない。
確かにピーターは恋人も友も仲間も失ったが、皆命を落としたわけではない。
MJは変わらずドーナツ屋で働いているし、ネッドと揃ってMITへ行くことが決まり、未来は明るそうだ。
ハッピーは愛する人物をまたも失ったが、ふたりを間近で見てきて、意志を引き継いだピーターと会話ができたことでいくばくか落ち着き、前向きになれたはず。
『スパイダーマン3』で、ピーター2は親友を失ったものの紆余曲折あってMJとまた再会し、関係を再構築した。
『アメイジング・スパイダーマン2』では、ピーター3は最愛のグウェンを救うことができなかったが、彼女の思いに応えてスパイダーマンとして戦い続けることを選んだ。
それぞれ似て非なる道だが、またそれぞれ運命を受け入れ選択し、前に進んだ。
そしてこのMCUのピーターもまた選択した。
誰からも知られていなくても、高校卒業資格を得るために勉強する道を。
ハイテクスーツがなくても、自ら繕ったスーツを纏い、警察無線を頼りに“親愛なる隣人”を全うする道を。
“親愛なる隣人”であろうとする道はこれまで困難を極めてきた。
時には本人がその枠から逸脱することを望んだり、世間がそれを求めなかったり、阻まれたり。
彼自身が選択した新しい世界でも、彼は変わらずスパイダーマンであり続ける道を選び、そのための一歩をようやく踏み出した。
彼がこのまま高卒認定を取り、晴れやかなキャンパスライフを送れるのかは我々にはまだわからない。
カメラが好きになって、因縁浅からぬデイリー・ビューグルと交流を築くのかもわからない。
MJと新しい愛を築くのか、それとも別の恋が待っているのかもわからない。
このラストを「希望がある」と解釈できるのも、メタ要素にギリギリまで踏み込んだ本作だからゆえかもしれない。
ただ我々にできるのは、いつだって青く、ボロボロになりながらも、真意を理解されずともまっすぐ正義を貫き通してきた“親愛なる隣人”の無事と活躍をこれからも祈ることだけだ。
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