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【雑記】 時間を圧縮する才能と、幸せについて

私は頭の中が多動なタイプの人間なので、常に複数の思考が同時に走っている。そのせいで、書いても書いても「あ、これも書きたい」「これも書こう」と次から次へと思いつくので下書きにとにかくアイデアだけでも書き殴っていく。

その結果、下書きの数がすごいことになっている。

しかし。しかししかし。たまに今日のような日がある。何のやる気も起きない日。

やる気がないと言いながらこの文章書いているのであれですが、でも今日はまとまった文章は書けそうにない。なのでつらつらと心に移りゆくまま思いつくままに文章を書き連ねていく。

3月頃に何となくで始めたnoteも産休に入ってから気がついたら毎日のように更新するようになりました。仕事をしていた時は週一回が精一杯だったので、頭の方の余裕は産休に入ってからだいぶ出来たようです。

多分ここ最近文章を書く気力が下がっているのは、一つには我が家の家業の方がいよいよ本格的に動き出したのもあるのかと思う。今色々と我が家では大変革が起こっていて、その影響で仕事の話が一気に進んだ訳です。私も動き始め、夫も本格的に仕事をし始めました。我が家は代々根っからの仕事人間なので、なんだかんだで仕事をしていた方が楽しい。なので最近また生活にハリが出てきました。

多分今までがあまりに暇だったのだと思います。



話は変わるのだけど、アメリカにいた頃、私は計4年間大学で日本語を教えていました。最初の2年は田舎の公立大学で。後の2年間は名門私立大学で。この2つの大学でそれぞれ教えたことで私はアメリカの広さを知ったし、環境によって人はこんなにも違うんだということを実感した。

その時に、ずっと引っかかっていて考えていたことがある。それは人の幸せってなんだろな?ということ。

一見、名門私立大学に通うエリートの卵たちの方が将来も有望だし幸せなんではと思える。一方の公立大学の学生たちは本当に様々な経済的・文化的背景を持った人たちで、優等生タイプの人もいたけれど、大部分が自分の生まれ育った州から出たことがないような人たちだった。私よりも一回り以上年上で、仕事をしながら通う学生もいた。お世辞にも、頭が良いとは言えない学生達が多かった。

だけど、後者の学生達の方が幸せそうに見えた。私からみると、彼らは何もかもシンプルで、だからこそ心配や不安みたいなものにも気がつかず、自分が手に入れられなかったもの、出来ないものなどに対する想像が及んでいないようだった。

私は日本語講師だったので学生達はみんな日本好きだったわけだけども、成績などを気にせずにただ単純に楽しんで学んでいる学生が多かった。

名門校の方の学生達は、それぞれの専門の勉強がとにかく忙しく毎日大変そうに見えた。日本語が好きで楽しんで勉強している人ももちろん多かったけれど、課題の料も少なくない中専門の勉強と両立が出来なかったりAが取れないことで成績表に影響が出てしまうからとかで、初級から中級、上級に進むにつれてどんどん人が減っていった。

皮肉なことに、成績優秀で真面目な学生ほど途中で諦めてしまい、多少問題児ではあるけれどクラスのムードメーカーみたいなお気楽なタイプの学生が残った。成績で言うとB-とかCとか、次のレベルに進めるギリギリのラインの人も少なくなかった。でも、こういうタイプの方が大学卒業時点での日本語能力は高いのである。

下手であっても上手く出来なくても気にせずに、好きなものをのんびりゆっくり続けていけるというのは、それが一つの才能なのだろうなと思う。世間では、学力なんかが優秀な人の方にフォーカスしがちだけど、それだけじゃあない。そう思う。

そしてやっぱり、のんびりと続けていける人はなんだか幸せそうに見える。人生を楽しんでいるように見える。



私は子どもの頃から過集中の傾向があって、一つのことに一気に集中してしまう時期というのが結構あった。でも、その反動として、短期間で凝縮してやりすぎてしまうせいで長くは続かないという問題もあった。だから色んなことに手を出しては辞め、手を出しては辞め…ということを続けていた。

そうするとね、集中している時は楽しいのだけど、ふと我に返ってやる気が切れた時に「あれ?なんでこんなことしてたんだ?」と思ってしまったりする。その直前まで全力でやっていたのに、である。冷静になって後から振り返ってみると、取り組んでいたことは決して無駄ではなく、マイナスでもないんだけど、この「スンッ」と我に返る瞬間のせいで、全てが無駄だったんじゃないか?と思ってしまうこともある。虚しくなるときもある。

だからね、アメリカ生活を終えて日本に戻ってきた時に決めた訳です。細長く、ゆるゆると、生涯をかけて続けていくことに挑戦してみようと。

その一つの例が、習い事です。現在は出産・育児があるのでお休み中ですが、私はお茶を習っている。この趣味は、自分が年老いてもなお続けていきたいと思って始めたものなので、なるべく無理せずゆるゆると続けようと決めた。だからこそ、気兼ねなく休んでいるし、出来なくてもまぁいいやと思えている。まだまだ私のレベルとしては初級のままなのだけど、死ぬまで続けることを念頭に置いたら焦りなどもなくなる。

色んなことをゆるりと始めてみて気づいたことは、私は一つの事だけをやろうとすると過集中してしまうということ。だから複数のことを同時進行でやって、一つ一つのエネルギー料が多くなりすぎないようにする。

そうやって、あえて50%出力くらいでありとあらゆることに取り組むようにしたら、いろんなことが上手くいき始めました。これくらいのバランスがちょうどいいんだなということを学んだ。

要は、平均なり中央値なりから大きく逸脱してしまうと、それが上方向への逸脱であっても負荷がかかるようになるのだと思う。なんとなく。

エリートの卵たちのあまり幸せでなさそうな姿も、もしかするとそういう部分でバランスが取れてないことで起こるのかもしれないなと思った。



ところで、バリバリ専門の勉強も日本語の勉強もこなしていて、他の活動にも精力的な学生が名門校時代の学生の中にいた。彼は成績も優秀で、同時に余裕も感じられた。ある年のバレンタインの日に、彼は私への日頃の感謝と言って、自分が活動してるアカペラサークルサークルの仲間たちを呼んで練習した歌を披露してくれた。あまりの青春キラキラで眩しすぎるほどだった。彼の専門は、大学の中でも大変さがトップレベルのところ。(実際に、その分野では同大学が全米No.1のレベル)

彼もまた、同時に複数のことをやる事で上手くバランスを取っていたタイプの人間なのだろうなぁと思う。

よく人に言われるのは、どうやって時間を捻出しているの?ということ。これは、実際私にもよく分からない。でも何となく思うのは、多分私は時間を圧縮する才能があるのかもしれない。過集中ってそういう事なのかもな。

ミヒャエル・エンデの『モモ』の中で、ゆっくり進めば進むほど早く進む道(だっけ?)が登場する。多分きっと、そういうことだと思う。

おわり。

▽ 参考

△ こういう、とりとめのない文章を書く時はいつもダロウェイ夫人を思い出す。(※「意識の流れ」または"stream of consciousness"で検索↙️)

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