Being with Dying (2年目 6月)
はじめに
6月は亀田総合病院緩和ケア科でのローテーションでした。緩和ケア科では、指導医のほかに、チャプレンやアナムカラ(ハープ奏者)、AYA世代がんサポートチームなど、多様な専門家との交流を通じて、非常に充実した期間を過ごしました。症状緩和の基本的な対策の学びだけでなく、スピリチュアルペインに対する接し方について理解が深まったと思います。
患者さんのベッドサイドに座り、彼らの話に耳を傾けながら応答する。その時の空間全体をフィードバックしていただき、その内容を基に深いディスカッションを展開することが、非常に価値のある時間でした。そして、蔵本先生に紹介された「Being with Dying」という書籍は、私にとって新たなバイブルとなりました。医師として患者さんに何かを「してあげなければ」というプレッシャーは、ケアを提供する側と受ける側という分断を引き起こし、真の意味で患者のそばにいることを妨げてしまいます。「何も知らない」と認めることから始め、全身で患者を感じながら、知ったかぶりをせずに寄り添うことが、スピリチュアルペインのケアの第一歩だと思いました。
スピリチュアルペインは終末期の方だけではなく、すべての人に存在します。私たち医師の立場性を理解しながら、Being とDoing のグラデーションを表現できるといいなと思います。
・死にゆく人と共にあること
苦しみに意味を持たせ、死に深みを与え、悲嘆に展望をもたらすためには、患者自身が自分の物語を作り上げる必要があります。私たちが考えるべきなのは、「どうすべきか」ではなく、「どうあるか」です。どうやって救えるかという考えでは、救うという行為が自分の主体的なイメージとなり、そうすることである程度の境界線を引いてしまいます。ケアする側とされる側の分断を生み、本当の意味で患者と同じ目線に立つことはできません。
Moody先生から学んだ「put in his/her shoes」(相手の靴を履く)という考えは、相手と同化することで真の共感が生まれるということを示しています。相手と自分が同じ目線に立ったとき、相手はそれを感じ取り、こちらの反応を捉えて、相手の印象と一致するかのような微妙な違和感を感じることがあります。そのズレをお互いに言葉に交わし、今いる苦しみの場所から違う場所へと少しずつ移動して、新しい場所へ落ち着くことが、コミュニケーションの基本です。
「知らないということ」
相手と同じ目線に立つことは非常に難しいです。私たちはすぐに自分のフィルターを通して物事を見てしまい、瞬時に判断を下してしまいます。これは普段の生活では非常に役立つ能力ですが、それがかえって障害となっています。他者や自分自身に対する固定観念を捨て、自然に沸き起こる初心者の心のように無垢でいることを忘れないことが重要です。他者の心の奥底の苦しみを完全に理解することはできず、そこには限界があります。その限界を知りつつ、頭を垂らして苦しむ人の傍にあろうとするとき、どちらも限界のある人間であるという理解があって初めて、苦しむ人と寄り添う人は同じ立場に立てると思います。
この「知らないということ」ができない時は、ただ自分の恐れを覆い隠しているだけです。医者として知っていなければならない、安心を与える存在でいなければならないなど考え、知っているふりをしてしまう。
このことに気づいてからは一旦白衣を着るのをやめ、本当の意味で一人の人間として、苦しみの中にいる人の横に座ってみました。そうすると、相手の人生や感情の波をとても強く感じてしまい、固まって何も話すことができなくなってしまったこともありました。まるで初めて解剖実習をした時や、ポリクリで初めて患者さんの部屋に入った時のように、命を前にして感情の処理ができなくなったのです。心の中に白衣というハリボテを纏っていたのではなく、私の中身は無防備なままだったと思い知らされました。ただ、それでも横に居続け、相手の言葉に耳を傾け、その存在を慈しむことができたのはこれまでの成長と、優れた指導医がついていてくれたおかげだと思います。
「見守ること」
「知らないということ」はスピリチュアルペインのケアの最初の一歩であり、非常に重要です。この状態を守り、私たちが結果に対して価値判断をしたり執着することなくありのままに、この世の苦しみや喜びと共にあることが「見届けること」となります。死に良いも悪いもありませんでした。日本のGood death研究は有名ですが、本当に良い死などあるのでしょうか。不可避の死の恐怖から逃れようとするために、良い死や尊厳のある死などの物語を作り上げ、死に結果を求めようとすることが逆に苦しみを生み出しているように思います。ありのままを受け止め、そして手放すことで本当の解放となる死の物語を作り上げることが個々の癒しとなります。
「慈悲深くあること」
慈愛がなければ、私たちは機械的で冷たく防衛的になってしまいます。自分自身が無垢な子どもの時と同じイメージで純粋な目線で相手を眺めること、そして患者さんの中にある純粋無垢な子どもの頃の姿を見て、その人の善性を感じ慈しむことが求められます。私の持つ死生観では「全は一、一は全」というイメージがあります。すべての人はどこかで同じだった瞬間があり、その感覚は兄弟や家族に向ける愛情を示すのに十分です。「Being with Dying」の著者ジョアン・ハリファックス師も、私たちは皆、前世では互いの母親だったことがあると話しています。
死にゆく人たちと関わるための三つの原則、「知らないということ」「見届けること」「慈悲深くあること」はどれも簡単なことではありません。チャプレンの瀬良さんも、アナムカラの西野さんも、自由になるのに10年はかかると言います。どのようにしてその階段を登っていったのか、教えてもらったことと気づきをまとめてみます。
・Listen from source
「アナムカラ」
アナムカラは「魂の友」と呼ばれ、西野さんはボランティアとして活動しています。彼女は、スピリチュアルペインを抱える患者さんの部屋でハープを演奏し、その音楽で患者さんの呼吸に合わせて空間を包み込みます。演奏することで、奏者、ハープ、そしてその場にいる全ての人々が互いに影響し合いながら溶け込む感覚を生み出します。西野さんもチャプレンも、人々に深く寄り添う同じ感覚を持っており、彼らから学んだことが、私のコーチングの基本である傾聴と深く結びついています。
「観察すること、自分自身を知ること」
患者さんと同じ目線でいられるようになるためには、まず自分自身を深く知ることが必要です。自分を理解し、肯定することが他者を理解し、受け入れることに繋がります。自分がどんな感情や感覚を持っているかに気づくことが大切で、それに気づいたら、過度に意識を向けずに手放すことが求められます。様々な経験を通じてそれを理解することが、周りの環境や自分の中身から来る雑音から解放されるための第一歩です。そして、それによってやっと患者さんの呼吸に真に向き合うことができるのです。呼吸や五感を用いて患者さんを観察する際は、集中するのではなく、ゆったりと全体を捉えるように努めます。そうすることで、相手と調和し、一体となることができます。
聴くという行為は、相手が話して、自分が聞くという単純なプロセスではありません。自分主導のニーズで話すのではなく、相手がどう感じているかを、解釈せず、省略せず、焦らずに理解しようとし、相手の歩幅に合わせて対話を重ねることが重要です。自分の存在や発言が相手に影響を与えていることを意識し、また自分も相手から影響を受けていることを認識し、それが対話に表れると意識します。相手の言っていることだけでなく、言われていないけれど言いたいことまで聞き取ることができるようになると、最終的には自分と相手の間にある空間から立ち上がるメッセージも聞こえてくるようになります。私がコーチングで学んだことが、まさに西野さんと瀬良さんから教えられたことと一致していたことに驚きました。
緩和ケア科でのローテーションを通じて、人生、死、ケアについて深く考えさせられる経験をしました。瀬良さんたちも自由になるまでに10年かかったとのことですが、私もその階段を一歩一歩登っていきたいと思います。