過ぎる時に 答えかき消されても

"あの日"は、もうすぐ妊娠8ヶ月に差し掛かる頃だった。

持病があること、逆子だったこともあって早めの里帰りを勧められ、東京から四国に戻ったのはその前日のこと。

前日の移動の疲れからかお腹の張りがあって、検診のモニターを長めに受けて帰宅したのが15時半ごろだったと思う。
待合室にテレビのない病院で、モニターをつけたりしたのもあって携帯もみていなかったので、妹に「お義兄さんから家に電話があった。会社にいて無事だって伝えてって。」と言われたとき、私はまだなにも知らなかった。

妹の言葉でテレビに目にやると、赤と黄色で縁取られた日本地図と、ヘルメットを被ったキャスター。
九段会館の屋根が崩落したと聴こえてきた。
前年の9月に行った場所だった。

夫が私の携帯ではなく、実家に電話した理由はそこで理解した。
だけどまさかそう遠くない未来に、被災地と呼ばれる場所で暮らすようになるなんて、そして少なからず復興に携わる仕事につくなんて、全く思っていなかった。



ここで暮らし始めた5年前の春。
被災地であるとはわかっていたけれど、恥ずかしながら実感はなかった。

大切な誰かを亡くした人、大切なものを失くした人が身近にいるかもしれないことを意識してはいた。
長女にも「地震や津波の話を軽々しく口にしないように」と言い含めた。

だけど私に見える景色は、なに不自由なく暮らせるキレイな街並みで、「あの日」はすでに過去のことだった。

そして新しい土地と日々の生活に終われて、"あの日"に想いを馳せることもなかった。



ここで暮らしはじめて、2年目の終わり。
コロナによる休校の決まった日、混乱する学童のお迎えのなか、私は完全にパニックになっていた。
そんな私をみかねてか、長女のお友だちのお母さんが声をかけてくれた。

「大丈夫だよ。水も電気も食べ物もある。
あたたかいものを食べて、自分の家で自分の布団で眠れるんだから。」

この土地の人たちは、みんな優しい。
進んで距離を縮めるわけではないけれど、困っている人を、不安な顔をしている人を放っておくことはない。

その優しさの基に触れた気がした。
"あの日"お腹に赤ちゃんを抱えて、どれだけの恐怖と不安に、悲しみに耐えたのか。
想像しかできないし、きっとその想像は追い付かない。

"あの日"から時の止まった場所に関わる仕事に就くまで、まだなにも動き始めていない場所もたくさんあることさえ、知らなかった。




12年たっても未だ、「あの日」を過去にできない人がどれ程いるのだろうか。
悲しみや苦しみや、痛みに、寄り添うことはできないから、忘れない。


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