kotoba no genkai
最近、言葉の限界について考えています。もともと言葉が好きなのと、中国語と英語の中で暮らしいるのと、こうやってたまに言葉を綴っているから。
今も「外国語」と書くべきか、「中国語と英語」と書くべきか迷いました。外国語と表記するとなんとなく差別的な意味合いも含まれる気がするし、中国語も英語も種類があるし、色んな人が出入りするので常に2言語って訳でもないし。言葉を使う事によって意味が限定されてしまうので 表現しづらい代物だなぁと感じるのです。
生き物が好きなので、日本で見たことがない動植物を見つけては写真を撮ります。(ほら、今も。生き物と言って動物だけを想像する人と植物を含めて想像する人がいるから言葉選びが面倒。)
自分の中で噛み砕きたいので名前を調べますが、特に昆虫は同定できないことが多々。物事を区別するために名前があるので正しい行動なのですが、一番大事なことは「目の前にあるソレ」。リュウキュウベニイトトンボだと分かって安心するべからず。見た目は似ていても雑種かもしれないし、人間に個性と呼ばれるものがあるように一匹一匹違う個体だから。私には無い体色や目のいろ、羽、どの時間帯にどういった挙動をするのか、目の前にある現象を大切に見ていきたいなぁと思います。
検索文化にも通ずるものがありますね。「ホワイト国ってどういう意味?教えてGoogleさん!」「あ〜そういう事ね、分かった分かった」ってなりがち。だけど、これじゃあGoogleさんが世界の脳みそになってしまうしアナタノ存在価値は一体? 現代人は(現代人てどっからどこまでなの?特定の誰かを指してるの?)、目の前にあるソレをじっくり観察出来ていない気がします。
今滞在している場所はリトリートセンターで、菜食主義やヴィーガン、ヨガの思想に乗っ取りたい人様々。昨日は半日「止語 No Speaking」を実行してる人がいて、なんとなく自分も言葉を発さないでみた。人間って喋らなくても会話できるもんなんだなと。目や表情が使えれば、そんなに困らない。
普段使っているナニカを数時間制限してみるだけでも、気付くことが多いかもしれません。
言葉の捉え方は人それぞれだし、曖昧なもの。それでいいし、そういうもんだ。でも、私が言葉を使って伝えることが面倒だと感じているのは きちんと自分の意図を伝わってほしい願いがあるからだって事、再確認できました。面倒だと思ってしまってなお言葉に拘るか、別の表現方法を模索するかは悩みどころですね
つらつらと書きましたが、単純にコトバって面白いです。いま、台湾×4、オーストラリア×2、日本×1 の7名で生活しています。不意に2単語くらいで話されると「え?いまの何語?」ってなりがち。それぞれの言語で似てる音の言葉があるので状況だけでは判断できなくなるんですね。毎日脳トレです
いずれ言葉の要らない世界がやってくる。私の生きてるうちに実現するんだろうか。そしたら、世界の人とある程度 認識や考えを共有する事ができて、人間はその先に何を望むんだろう。もしかしたら互いに理解しづらい今の方が楽しいかもしれないなぁ、、なんて考えながらもうすぐごはん。
今天颱風來了、所以天氣不穩定。