29年前のこの日・阪神淡路大震災
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源地とする地震が起きた。
東北地方から九州地方まで広い範囲で揺れ、国内で史上初めてとなる「震度7」を記録した。
死者6434人
僕が当時住んでいた長田地区は2日に渡る大火災で完全に消滅した。
水道管の被害により、駆け付けた消防車からは水一滴も出なかった。
家屋の下敷きで、生きながらにして死んでいく人をただ見るしかなかった。
生きながら焼け死ぬ人の叫びは壮絶だ。
今でも、耳の奥に鮮明に残っている。
震度7では、逃げるどころかただただその激震に身を預けることしか出来ない。
僕の自宅は倒壊はしなかったが、部屋の家財道具はまるで巨大なシェーカーに振られたごとく粉々になった。
母親は死んだ親父の仏壇の観音開きの木戸が、母親を抱くような恰好で倒れ、落下物全てから守られた。無傷だった。奇跡だと思った。
まだSNSも無かった頃、親戚・知人の生存確認はすごく困難だった。
生存確認をする為に、地域の学校の体育館を巡った。
そこは巨大な死体安置所と化していた。
張り紙を見ても、全ての遺体の元が分からないものも大部分だった。一人一人の遺体を確認した。人間切羽詰まった目的があれば、恐怖心も不安も消し去れるのだということをそこで体感した。
ほんの少しの運命の差異で、生き死にが分かれていた。
僕の親しい友人は、結婚が決まって東京在住のフィアンセが生まれてはじめて神戸を訪れていた。これから幸せを謳歌しなければならない彼女は、その日神戸で逝ってしまった。
築数十年の安普請な二階建ての木造作りのアパートの一階に、僕の後輩は住んでいた。あの倒壊した阪神高速道路のすぐ脇に住んでいた。
一縷の望みを抱き、彼のアパートを数時間掛けて訪れた。
想像通り、アパートの2階はスライドして前の道路に落ち、一階部分はペシャンコだった。
が、彼は廃墟となったアパートにおり、瓦礫を除き救助活動をしていた。
無傷だった。
理由を聞くと、地震が起こった夜は大好きなプロレスの試合が深夜枠であったので、布団で寝ずにコタツで寝ていたという。そしてそのコタツと座椅子の間に挟まり、彼は崩落する壁から身を守れたということだ。
普段通り布団で寝ていたなら、間違いなく彼は死んでいたことだろう。
予期せぬ激震で、睡眠中にそのまま即死した人も間違いなく多くいたはずだ。
そういう人たちは、何が起こったのかも知らぬままに死んでしまったことだろう。
そうかと思えば、ちょっとした行動のあやで助かった人もいる。
その時、僕はとにかく数えきれないほど亡くなった人を見た。
その結果、僕の死生観というものはそこで大きく変わった。
そしてその結果辿り着いた僕の答えは、生きている者は何がなんでも生きなくてはいけない、という事だ。
亡くなった人の為に、とかいうものでなく、とにかく生きなければならない、という根源的な意識だ。
そういう事を、これからもこの1月17日という日がくれば嫌でも思い出す事だろう。
出来れば、生きてく糧にしたいと思う。
29年前訳も分からず亡くなった方々の、冥福を改めてお祈りいたします。
※添付してある僕のブログ記事は、29年前を振り返ってそこで何が起こっていたのかということをドキュメンタリーに書いた記事です
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