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擬態の思い出

今回は私の擬態していた頃のことを書いてみようかな、と。

思い返してみると、私が擬態し始めたのは小学校高学年くらいから。そしてそれが解けたのが40歳手前。なので、およそ30年近く擬態という殻の中で過ごしていたことになる。

簡単に擬態の問題点を挙げるとすると、
・殻に入り込んでいることを本人は自覚していないということ
・頭の動きが固まるということ
かと思う。

無自覚というのは「自分は擬態者だ」という認識がないだけに、ある意味で自分を責める気持ちは薄くて気楽かもしれない。
但しここで「無い」ではなく「薄い」としたのは、私の場合は自己批判的な気分は常にあった為に、完全な楽観者ではなかったからだ。
擬態をしている状態というのは、つまり内的な自分を否定し続けることでもあるから、自己批判的な気分があったというのは、今思えば、否定されている側の自分が、意志を持って擬態している側を内的な深層から批判していたのだろうなぁと思っている。

次に、頭の動きが固まるということだけど、擬態しているととにかく自分の身体を自分が動かしているという感覚が薄らいでいるので、四六時中ぼーっとした感覚の中にいることになる。
頭の中ではじっくりと深く物事を考えたくても対外的な行為をうまく乗り切ることが最優先事項とされて、その上さらに先ほど述べた自己批判的気分も相まって、絶えず脳が全方位的な自己チェックを行っている状態になり、自分が考えたい深度まで脳のリソースを割り当てられなくなってしまう。
その結果、考えたいのに考えられない、そんなジレンマを常に抱え続けることになる。
厄介なのはそれが幼い頃からのデフォルトになることでこれこそが自分の自然な姿だと思い込み、違和感を感じることが一切ないこと。
そしてそれが常態化した結果、自分で自分を擬態化させていることに無自覚な人間が出来上がる。ぴえん。

そんなこんなで、私は擬態する前の本来の自分を忘れた一種の記憶喪失状態で長らく生きてきた。
「小さい頃はもっと物事を深く素早く考えられていたような気がするなぁ…(遠い目)」という漠然とした感覚だけは持ち続けていたから、「人間というものは成長すると頭が動かなくなるものなんだな、うんうん」とまだ20歳そこそこで妙な納得の仕方をしていた。

では次にどうやってそこから抜け出たかと言うと、自分の子供がギフテッド的な特性があった為に色々と調べ始めたことが発端。
各種書籍やネットの情報からその特性に挙げられている特徴を色々と知っていく中で、よくよく考えれば「あれ?これ、昔の私のような…」と自分自身のことに思い至り、本来の自分を思い出した。

ただ、思い出したはいいものの、私の場合はその後に度々精神的に大きな試練があったので、本来の自分を思い出せてラッキーだったねと言われても「うーん、そう簡単でもないんだよね」というのが正直な気持ち。
否定し続けた自分とまた一つになるのは、なかなか困難なことで単純な道のりではないらしい。
それでも、最終的に幸運だと言えるかどうかは結局は結果がどうなるか次第なわけだから、死ぬ時に「あぁ、あの時に本当の自分を取り戻せてよかったな」と思えるよう、これからの人生を楽しんで生きていかなきゃなと思っている。

今までもこれからも変わらずに、自分自身と折り合いをつけていくその道のりは続くんだよね。
ということかな。

おしまい。

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